日頃よりお世話になっております。
経済学部3年、林賢治です。
人生とは何か?生きている意味とは何か?そんなことを考えに考え抜いて、やっと自分の中で絶対に納得できる答えを出しては、けれどもそれは違うんじゃないかと、ようやく掴んだ真理を見失ってしまうというのを最近繰り返しています。
私がバレーを始めてからつい3ヶ月前までは、人生とは、自分が本気になれることに感動することだと考えていました。これは私が大好きな漫画である『ひゃくえむ。』という作品の主人公が言ったセリフによる影響が大きいので紹介します。
「僕は明日生きるために死んでいました。」
どうでしょうか。すごく印象的な言葉だと思います。すなわち、現実に対する恐怖や不安や疲れの中で、生きがいを喪失した上で、明日どうやって生きたらいいか考え、打算に走っているのです。しかし果たして、私たちは打算に生きて、死ぬ前に満足できるでしょうか。
多くの人は、観念に囚われすぎていると感じます。例えば、私たちは生きていくためにお金を稼がなければいけません。「お金」のために身を削り、自分の大事なものを捧げ、打算的に生きている人はごまんといます。「時間」に追われ、好きなことをできない人、「現実」見なよって言われて、夢ややりたいことを諦める人。はたまた、子供の頃はただ楽しくて絵を描くのが好きだったり、走るのが好きだった人が、他人の「評価」のために作品を作ったり、タイムや歴史的「記録」のために走ったりしてしまいます。これらは全て、私たち人間が作り出した観念です。これらのために生きることは、死ぬことと同じです。
不幸なことに、私は高校生までは人生においての生きがいを手にすることはできませんでした。つまり、高校までは死んでいました。がしかし幸運なことに、大学に入ってからは生きている実感が持てていました。バレーボールのおかげです。
バレーに全てを捧げ、喜怒哀楽、嫉妬、憎悪、恐怖、不安、感動などのあらゆる感情を経験しました。練習して練習して、人生を賭けたものは、あっという間に消えてなくなってしまうかもしれません。しかも、そもそもバレーに大学4年間を捧げること自体が愚かな行為なのかもしれません。なんでわざわざ大学でバレーボールをしているのか、わからなくなる時もありますし、怪我したり挫折したりして、辞めたくなる時もあります。スランプで思うように成長できなくて、自分の努力は無駄だったのかと絶望する時もありますし、4年間賭けても一部復帰はできなかったかもしれませんし、そもそもこの先いくら頑張ったとしても試合には出れないのかもしれません。しかし、私は人生をバレーにかけたからこそ、むしろ人生においての輝きを手にし、人生においての栄光を手にしていたのです。
同じく『ひゃくえむ。』という作品の財津というキャラクターがこう言いました。
「不安は対処すべきではない。人生は常に失う可能性に満ちている。そこに命の醍醐味がある。恐怖は不快ではない。安全は愉快ではない。不安は君自身が君を試す時の感情だ。栄光を前に対価を差し出さなければいけない時、ちっぽけな細胞の寄せ集め一人、人生なんてくれてやれ。」
つまり、安全で退屈な日常から抜け出し、刺激的で不安定な環境に身を投げ打って、恐怖をあえて引き受けるからこそ、人生の「幸福」を、「強度」を、「輝き」を、「栄光」を手にすることができるのです。
私は大学からバレーを始めたので、最初の2年間は全く試合に関われませんでした。1年生の時は、それを覚悟で一生懸命練習していましたが、それを乗り越え、ようやく基礎練にしか参加できていなかった1年が終わった時、2年生になっても、ラリー形式の練習(総合練習)に参加しないでくれと告げられ、本当に絶望しました。2年間ただずっと基礎練をし、総合練習では磨いてきたものを発揮できず、ただ声を出すしかできませんでした。毎日毎日基礎練して、練習時間の半分くらいで練習を終え、皆んなが楽しそうにバレーするのを横目に見ているしかできませんでした。何なら参加できない基礎練もあったくらいです。
こんな日々を2年間経験して、3年目もそうなるかもしれないし、4年間を通しても、試合には結局関われないのかもしれないと震えながら、辛い現実と向き合うしかありませんでした。この2年間は、それはもう、本当に怖かったです。辛い現実が、いつ終わるか先が見えない感じが、どれほどきつかったことか。そんな私だからこそ、悟るしかなかったのです。バレーボールをする理由を。人生を賭ける理由を。
私は幾度となく、世の中から「現実見なよ」というふうに言われてきました。「半年くらいでバレー部辞めると思ってた」「総合練習に参加できてないのに、よくバレー続けていけるね」「おまえ、まだ退部してなかったんだ」
そんな言葉を散々きかされてきました。挫折や恐怖や現実と必死に格闘してきました。でも今、安全は恐怖になりました。そして恐怖は栄光に、生き甲斐になりました。なっていたはずでした。。
最後に、『ひゃくえむ。』の主人公が言った、私が好きだったセリフを紹介して終わります。
「僕らは一体何のために走っているんだ?そんなの当然、本気(ガチ)になるため。それ以外いらない。俺も最近考えたんだ。自分を振り返ると、何だかテンパってる人生だった。孤立や敗北を恐れたり、逆に負けねぇって開き直ったり。そのせいで敗北を直視しなかったり。誰かが見てくれるとか妙な信仰したり。まぁそんなことあって、ようやく真理にたどり着いた。人間は最後まで自分の心しか理解できないし、誰にもどこにも居場所なんてない。連帯も共感も愛情も全てこっちの思い込みだ。そして極めつけに、みな絶対死ぬ。冷静に考えたらこんなヤバい話ってないよな。そんな真理が人間を絶えず不安にさせる。不安にさせるが、そんな真理には、俺らが、人間が本気でいる時の幸福感を1ミリも奪えない。」
私たちは、概念や観念に対して、本気にはなれません。自分の本気がどこにあるのか、何のために自分の命を使うのか。それがわかっていなければ、私たちは「概念」に、「観念」に、「現実」に、「真理」に、屈してしまうのです。
我々は一部復帰を果たしました。しかし、競争に勝つからある種の栄光が手に入るのではありません。栄光に向かわせるためにこそ、一部復帰が、競争が、バレーボールが必要なのです。競争があるから勝ちたいと思う。勝ちたいと思うから真剣になる。真剣になれるから自分の本気が出せる。そのために、実はバレーボールが必要だったのです。バレーボールは、人生そのものだったのです。そう、人生とは、私たちが死を目の前にした時にのみ顕在化される先駆的本能のありかを、『ひゃくえむ。』でいうところの本気のありかを、それを探す旅なのです。
自分の人生の価値、生きる意味を考え抜いて、このような真理を軸に私はこの先何十年と生きていくんだと確信していた2年間でした。ただ今は、それが揺らいでしまっています。別にバレーボールがうまくいっていないわけじゃありません。バレーはいつだって最高に熱く、楽しいです。ただ、人生はそんな煌びやかで崇高なものではなく、我々人間は130億年の宇宙の歴史と比べるとあまりにも小さすぎる、ただの遺伝子の乗り物に過ぎないのかもしれないとと思うと、すごく虚しい気持ちになるのです。そして、人生とは、本来意味など全くもってなく、生まれ落ちてしまった我々が後付けでその価値を生涯見出し続けねばならない生き地獄のようなものなのかもしれません。
乱文失礼いたしました。
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