HISTORY

慶應義塾体育会バレーボール部90年の歴史

1931年(昭和6年)4月に、慶應義塾排球部として発足、慶應幼稚舎の小石混じりの運動場を借りる等し活動。
1932年(昭和7年)に東京帝大・早稲田・慶應等6校により関東学生排球連盟が発足。
1935年.第1回早慶定期戦開催。
1937年、日吉蝮谷にバレーボール専用コート開設。
1941年(昭和16年)に大学リーグ戦準優勝の実績が認められ、23番目の部として体育会に加盟。
終戦翌年の1946年(昭和21年)に第1回慶関定期戦が、さらに1948年(昭和23年)には第1回早慶明定期戦が開催され、スポーツを通し国民に元気と勇気をお届けすることで戦後復興に貢献。

1949年(昭和24年)日吉校舎がGHQより返還され、新しいバレーコートが完成。
塾バレー部の練習は一段と充実。13回目の早慶戦で初めて早稲田から勝利を勝ち取った。
1950年(昭和25年)には春リーグ・秋リーグ優勝。慶應を頂点とした第一次バレーボールブームが巻き起こった。後楽園スタジアムの会場は常に満員で1万人近い観客を集めた。
天皇杯優勝、国体優勝、全日本大学選手権を複数回優勝!と塾バレー部の全盛期。
黄金時代の主要メンバーだった松平康隆は後に全日本代表監督として1972年ミュンヘンオリンピックで金メダルを獲得。
加藤明はバレー後進国ペルーの女子チーム監督に就任。1968年メキシコ五輪にて初出場でベスト4の快挙。ペルーの英雄と呼ばれた。

1970年の1部6位を最後に下降線を辿り、1995年には6部。
OBが結集し、選手獲得・選手育成に着手。
全国の進学校に手紙を書いたり、バレー部員が勉強を教えたりと、長年の地道な強化が実り2010年から1部復帰。
卒業後もVリーグで活躍する選手を輩出するようになった。
2011年に入学した柳田将洋(東洋高等学校卒)は在学中の2013年に全日本メンバーに登録され、2018年にはバレーボール日本代表の主将に就任するなど、世界の舞台で活躍をしている。

2021年から卒業後SUNTORYサンバーズで活躍した星谷健太郎が監督に就任。
2021年関東大学2部秋季リーグ戦にて全勝優勝で1部昇格。
「大学日本一」を目標に学生主体の活動を行っている。

伝統ある定期戦は、早稲田大学との「早慶定期戦」(2022年で第86回)
関西学院大学との「慶関定期戦」(同、第76回)、
OBも加わって競う「全早慶明定期戦」(同、第72回)の定期戦がある。

1981年(昭和56年)慶應女子高バレー部OGを母体として活動開始。
早稲田大学には女子部があり、慶應もチームを作って早慶戦に出場したいという話しが発端だったとのこと。
秋に10部リーグから出場し優勝で9部昇格を決める。
1984年(昭和59年)体育会バレーボール部女子として承認を得る。
春リーグ6部優勝、秋リーグ5部優勝、第1回早慶戦にも勝利するなど、体育会としての最高のスタートとなった。
1985年は4部残留となるが早慶戦に勝利。
1986年、早慶戦に3連勝。秋リーグでは念願の3部昇格を果たした。
1987年春リーグでは3部2位(連結順位14位)。※女子部の歴代最高成績
初期は部員不足に常に悩まされ、1988年に4部降格してからは下降線を辿り、6部在籍の期間もあった。
2005年に3部復帰。強化、選手獲得の体制は少しずつ整い始めた。
2013年、初めて春高バレー出場経験者・御手洗温子(延岡学園卒)が入部。
この頃から部員も増え始め、チーム2022は部員20名で活動している(2022/4/1現在)

主要大会は関東大学バレーボール春季と秋季リーグ戦。
定期戦は早稲田大学との「早慶戦」で2022年で39回目の開催となる。

女子チームは活動開始以来、一貫して「学生の力、自分たちで作り上げるバレーボール。自立した人間形成」を目指している。

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