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如何に死ぬか

総合政策学部卒業生  大槻 晟己

こんにちは、副将の大槻晟己(総・4)です。
とうとう本格的に冬が到来し、長袖のジャージが必要な季節になってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

私はこの1年間「如何に死ぬか」を考えてきました。死と言っても生物としての死ではなく、バレーボールアスリートとしての死です。全日本インカレが終わってもバレーボールをする機会はあるかもしれませんが、少なくとも現在のようにほぼ毎日練習したり、上手くなるために情熱を注ぐことはないでしょう。つまりバレーボールアスリートとしての私は、全日本インカレで負けた時に死ぬことになります。『〇〇としての自分が死ぬ瞬間』。おそらく皆さんも何度か味わったことがあることでしょう。

「人間は死に依って完成せられる」というフレーズをご存知でしょうか。ある小説の中で主人公が友人に宛てて書いた手紙に含まれている一文です。少し昔の小説に出てくる言葉ですし、しかも私はまだ22歳の若者ですから、この言葉の意味を全て理解できたとは思っていません。あくまで自分なりの解釈として、私はこの言葉における「完成せられる」を「確定される」として理解することにしました。(小説の中での意味合いは少し異なるかもしれません。)

何事においてもそうですが、決定的な終わりが訪れるまで中身はいくらでも変えられます。例えばお笑い芸人の場合、売れた人の苦労話は「芸を磨いた下積み時代」などと名付けられますし、逆にお笑い芸人として生きていくことを断念した人の話を聞いたとすれば「才能の無さを自覚した10年間」とタイトルが付くかもしれません。最終的に売れたか、売れなかったかだけの違いで他は全く同じ中身だったとしても、です。

続けている限り、中身は流動的に意味合いが変わり続けるでしょう。それは私のバレー人生でも同じです。優勝、1回戦負け、怪我、チームメイトとの喧嘩…。それぞれの経験がどのような意味を持っていたのか、今の私にはまだわかりません。それらにはっきりと意味づけできるのは、バレーボールアスリートとしての私が死ぬ瞬間なのではないかと予感しています。

「人間は死に依って完成せられる」
今の私は確かな実感とともに、この言葉を受け止めることができています。これまでにバレーボールを通じて出会ってきた人は本当にたくさんいます。その一人ひとりに自分が何を遺せたのか。どんな影響を与えることができたのか。また自分がバレーボールを通してどれだけ成長できたのか。何を学んできたのか。自分のバレー人生をはっきり自覚できるようになる最初の瞬間が全日本インカレが終わる時だと予感しています。その瞬間を胸を張って迎えられるように、残りの日々を大切に過ごしていこうと思います。

この1年間、私にとって本当に濃い時間でした。ギリギリで一部残留を勝ち取れたこと。仲間が一生懸命企画してくれた早慶戦で全力でプレーできたこと。中学三年生ぶりにスタメンで試合に出られたこと。99%ぐらいはしんどいことや辛いことでしたが、まあ良いでしょう。
人生そんなもんです。

4年生に振り回された下級生は大変だったと思いますが、ここまでついてきてくれてありがとう。あと少し、共に走り切ろう。

全日本インカレの初戦は、昨シーズン同じ大会で敗北を喫した愛知学院大学です。
リベンジの舞台をくれたバレーの神様に感謝して、全力で向かって行きましょう。

今後とも慶應バレー部をよろしくお願いいたします。

俺は燃え尽きて、死ぬ!

“如何に死ぬか” への1件のコメント

  1. 澤田 壮一郎 より:

    2023年の全日本インカレを通して慶應バレー感動いっぱいでしたね。

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