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未到

総合政策学部卒業生  大槻 晟己

こんにちは。
シーズン2023にて副将をさせていただきました、総合政策学部4年の大槻晟己です。

「最後の活動日誌」を自分が書く日がくるとは…。4年間袖を通した学ラン脱ぎ、私服で授業に向かいながら、引退という事実をひしひしと感じております。

さて、今回の活動日誌は勝手ながら私のバレーボール人生を振り返らせていただきます。最初は小学校時代の出来事から順番に書いていこうかなと思っていたのですが、それだと軽く10万字を越えそうだったので、苦渋の決断ではありますが下に箇条書きした項目を心を込めて記すことにしました。最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

・人生を変えた出来事
・2人の恩師
・3人の戦友
・両親
・理想
・最後に

【人生を変えた出来事】
はじめに私の人生を変えた出来事から書いていきます。私の人生を変えた出来事、それはトスにおいてイップスが出るようになってしまったことです。いきなり重い話ですが、もう過ぎた話なのでぜひ読んでください。

私がイップスに悩まされるようになったのは高校生1年生の春〜夏頃だったと記憶しています。ちなみにイップスを知らない人のためにWikipediaの一文を紹介しておきます。「イップス (yips) は、主にスポーツの動作に支障をきたし、突如自分の思い通りのプレー(動き)ができなくなる症状のことである。(Wikipediaより)」イップスはまだ研究途上で、かつ個人差もありますが、私も概ねこのような症状に悩まされていました。「自分の思い通りのプレーができなくなる」という説明は文字で見ればそれほど衝撃的ではありません。緊張したときや調子が悪いときなど、思い通りのプレーができないなんてアスリートにとって日常茶飯事でしょう。しかしイップスのそれは異質なのです。

私の場合は筋肉の硬直が顕著でした。腕の筋肉が動作中に硬直して途中までしか肘が伸びず、トスが短くなったり、低くなったり。しかしこれはまだマシな方で、指先まで硬直してしまうとボールが手に入らず、ダブルコンタクトになってしまうことが何度もありました。そしてこうした状況が続くと、徐々にトスを上げることに対して恐怖心が出てくるようになります。恐怖心とイップスが負のスパイラルを起こし、高校1年生が終わる頃には素人同然まで技術が落ち込んでいました。こうして文章で振り返ると淡白なストーリーに見えますが、実際の感情は混沌を極めていました。というか引退するその日まで、私の心がイップスから解放される日はありませんでした。

自分で言うのもなんですが中学生までの私はかなり上手いセッターだったと思います。ボールは自分の思い通りに飛んで行って当然だと思っていましたし、なんでもできると思っていました。実際に過去の動画を見てみると、今の私ができないプレーを平然とこなす自分が画面の向こう側にいて、なんだか不思議な気分になります。

そんな輝かしい自分から、素人同然のトスをあげる自分にまで一気に転げ落ちた高校時代、毎日が崖を転げ落ちるような日々でした。できていたことがどんどんできなくなり、そのことに対する恐怖とやり場のない怒りがぐちゃぐちゃに混ざりながら日々過ごしていました。同じ体育館で一緒に練習している同期はどんどん上手く強くなっていく。同じ時間を過ごしているのに自分はどんどん下手くそに退化していく。そんな自分がどうしようもなく憎らしくてたまりませんでした。

そのころは中学時代の友人に会うのが本当に嫌でした。下手くそな自分を見られ、ベンチにも入れない自分を見られ、「あいつは落ちたな」と陰で噂されているのではないかと想像する日々。地獄と表現してなお、お釣りが来るほどに苦しくて、屈辱的で、悔しい毎日でした。しかし、下を向いてばかりはいられません。卒業後の進路を考える時期がやってきました。

私は元々根っからのスポーツ少年で、できることならずっとスポーツをして生きていきたいと考えていました。ですから高校入学当初は体育大学などの体育教員免許を取れる大学に行こうと思っていましたし、まずはバレー選手として身を立て、その上でセカンドキャリアとしての教員を考えていました。しかしイップスになった私は十分にプレーできませんから、バレー選手を目指すことを諦めることにしました。

そうして高校生の小さい脳みそで自分のキャリアを再考し、考え抜いた答えが「とりあえず日本一の社会人になれる大学に行こう」というものでした。「日本一の社会人になるならとりあえず良い大学に入らないと。」と漠然とした思いを持っていたある日、清風高校バレー部OBであり、当時慶應義塾体育会バレーボール部で主将をされていた伊藤祥樹先輩(2019卒)が清風高校へ偶然来校されました。

そのときの伊藤先輩は他の大学に通っている先輩と良い意味でどこか違っていて「慶應で大学4年間を過ごせば何か人生が良い感じになりそうな気がする!」と感じました。実は私と慶應の出会いはこんな感じだったのです。非常にざっくりとした感覚と視野の狭さはいただけませんが、それでも結果的に大正解となる進路を選んでくれた高校生の頃の自分には感謝しています。

このように私を慶應に導いてくれたイップスでしたが、イップスが私にもたらしたことはそれだけではありませんでした。一つは視野を広げてくれたこと。もう一つは自分を精神的に大きく成長させてくれたことです。

中学生までの私は良い意味でも悪い意味でも「弱いこと」を許容できませんでした。半ば自分が上手いばかりに自尊心と自己中心的な思考が膨れ上がり、練習を真面目にしないチームメイトに対して喧嘩腰で詰め寄ることもありました。また試合中にミスをしたチームメイトにも強い刺々しい言葉を投げかけたりと、とにかく薄っぺらな人間だったなと思います。しかしイップスを経験したことで「できない辛さ」はもちろん、応援席からの景色やベンチからの景色を見る機会も増え、少しずつ視野が広がっているのを感じていました。

またイップスは私を精神的に大きく成長させてくれました。イップスがいつ出てしまうかわからない私にとっては、ただのコンビ練習ですらとんでもなく緊張します。そうした毎日を過ごしているうちに、ストレスに立ち向かう心の強さはとてつもないレベルにまで鍛え上げられました。また、大変な毎日だったからこそ「他人と比較せず自分軸で生きること」の重要性や、モチベーションの維持(https://keiovb.com/blog/7719/)、辛い出来事に対する考え方(https://keiovb.com/blog/9800/)などについて考えを深めることができました。

もちろん「イップスにならなかったバレー人生」を歩んでみたかった気持ちはあります。大学生になっても、試合会場に向かうときには吐きそうなぐらい緊張しましたし、もう一生トスを上げたくないと思っています。しかし、今の私があるのは間違いなくイップスのおかげであり、人生全体で見れば非常に大きな財産をもたらしてくれた出来事だったと感じています。イップスのせいでどれだけ苦しめられたかわかりません。寝られない夜が何度もありましたし、バレーボールという競技自体がこの世から無くなれと祈ったこともあります。でも、イップスのおかげでここまで来られた。これは紛れもない事実です。私はイップスに感謝していますし、イップスを抱えながらも最後まで闘い抜いた自分を、心から誇りに思います。

【2人の恩師】
すでに長くなってしまっていますが、最後の活動日誌ですからお付き合いください。私はバレー人生において2人の素晴らしい師に出会うことができました。1人目は小学生時代にお世話になった伊藤晋治先生(現:清風中学校バレーボール部監督)、2人目は山口誠先生(現:清風高校バレーボール部監督)です。

1人目の伊藤先生は私にバレーボールの楽しさ、面白さ、苦しさ、難しさ、辛さ、厳しさの全てを教えてくれた人であり、伊藤先生と山王小学校の体育館は、私にとっての原点です。伊藤先生の元でバレー人生をスタートできたからこそ、今の自分があるのだと確信しています。また、私をバレーボールの世界に引き込んでくれた人でもあり、伊藤先生との出会いが私の人生をまるっきり違うものへと変えました。

伊藤先生からはバレーボールの技術(私の基礎的なスキルは全て伊藤先生によって培われました)はもちろんのこと、「人として」の部分をたくさん学びました。「人のために頑張れる人になれ」という伊藤先生からの教えを忘れたことはありませんし、チームを卒部するときにいただくメッセージ(https://keiovb.com/blog/9466/)は今でも部屋の見えるところに置き、人生の節目ごとに読むようにしています。

また指導力・教育力だけでなく、1人の人間としても、伊藤先生のことは非常に尊敬しています。「やるべきときにやる」という言葉がこれほどまでに似合う人を私は見たことがありません。コミュニケーションのバランス感覚や態度の使い分けなど、「伊藤先生のようになりたい」と感じる部分が沢山あります。これからも「人間の理想像」として伊藤先生のことは追いかけ続けたいと考えていますし、そう思える人に小学生の時点で出会えたこと、そして指導を受けられたことに感謝しています。

これからも山王VBCで学んだことを忘れず、「人のために頑張れること」を大切に生きていきます。本当にありがとうございました。山王VBC 30周年のセレモニーにはぜひ呼んでください。

2人目は山口誠先生です。山口先生からは「物事を突き詰める姿勢」と「枯れることのない情熱」を学びました。清風高校バレーボール部に入った私は衝撃を受けました。今まで練習だと思っていたことが練習じゃなかったのです。本気で日本一を目指す練習は想像の何十倍もきつくて、何度も引退までの日数を数えました。しかし、清風の体育館には、その練習に誰よりも真剣に目を光らせて、誰よりも汗だくになり、肩が痛くても顔をしかめながら球出しをしてくれる山口先生がいたのです。どれだけ厳しい練習を課されても、めちゃくちゃにきついランメニューを組まれても、山口先生が私たち学生以上に頑張ってくれているので何も言えませんでした。

山口先生から要求される「バレーボールに対する姿勢」はきついときもありました。「そろそろ自主練始めないと怒られそうだな」とか「ここで引いたら練習から出されそうだな」とか、あげればキリがありません。ですが清風で経験した「突き詰め」は、私の人生にとって大きな財産になっています。どれだけきついときでも「あれだけ頑張れた俺なら今回も」といつも思える。その地盤を作ってくれたのが山口先生だと思っています。山口先生ぐらい大きな情熱の炎を、私も灯して生きていきます。本当にありがとうございました。

【3人の戦友】
私には3人の戦友がいます。その3人は森垣陸(日本大学)、山本航世(中京大学)、金子玄(関西大学)で、山王VBC(小学校)と清風高校で共にバレーボールに打ち込んだ同期です。この3人は常に、僕にとっての心の支えでした。

前述の通り、私は高校生のときにイップスになってしまいました。しかし、トスを上げ続けることができたのは、打ちにくいトスでも黙って打ち抜いてくれる心強い仲間がいたからです。

金子玄はどれだけトスが短くなっても近くなっても、涼しい顔で決めてしまう最強のアウトサイドヒッターでした。その類稀なる「打ち切り力」は今思い出しても素晴らしいものがあります。玄は身長が177cmぐらいしかないのに、驚くようなコースに打ち込んだり、伝家の宝刀である軟打で相手を撹乱したりと、とにかく「頼もしい」の一言に尽きるエースでした。また、玄は一緒にいるだけで笑ってしまうような雰囲気を纏っている「(いじられる側の)THE・関西人」的人間でもあり、辛いときやきつい時、何度玄に救われたかわかりません。遅刻癖だけはいただけませんが、それ以外は本当に完璧だと思います。これまで本当にありがとう。

山本航世は高校時代、2年生の時からスタメンになってしまったので、Bチームの僕はなかなかトスをあげる機会がありませんでした。でも、2人の間で完成されていた「超速クイック」など、小学生時代から引き継がれたコンビネーションで、私が上げたトスを気持ちよく決めてくれる最高のミドルブロッカーでした。彼の真骨頂は本当に「なんでもできる」こと。スパイク、レシーブはもちろん、トスもセッター並みに上手いし、おまけに身体能力は抜群。彼にラントレで勝つことは絶対に不可能でした。バレーボールだけでなく、航世の素晴らしい部分は他にもあります。航世は誰よりも仲間を大切にする男で、ここに書いている玄、陸、そして私の引退試合(全カレ)を全て、会場まで足を運んで見守ってくれました。私がイップスに悩んでいた高校時代も、黙ってそばにいてくれた最高の仲間です。本当にありがとう。

最後に森垣陸。陸とは小学2年生から高校3年生までの11年間一緒にバレーボールをしてきました。私が高校3年生のときに二枚替えで出ていた相棒であり、片方が失敗すればその二枚替えは失敗に終わってしまう、運命共同体のような存在です。とは言え、実際は私のミスで迷惑をかけることが大半だったなと思います。陸は私にもう一度、自信をくれたスパイカーでした。高校時代、それまで積み上げてきた技術が全部無くなって、私は絶望していました。しかし、どんなトスも打ち切ってくれて、絶対に打てないようなトスも処理してくれる。「陸にあげれば決まる」という事実が、何度も僕の心を軽くしました。

合言葉は「必殺二枚替え」。

14年前、高学年のお兄ちゃんたちが練習する横で跳び箱で遊び、一緒に笑っていた小学2年生の陸の姿は今でも記憶に残っています。そんな陸と一緒に、春高のセンターコートに立つ日が来るとは。辛かったし、苦しかったけど、センターコートに陸と共に立ったあの日、このために頑張ってきたんだろうなと思えました。

陸、本当にありがとう。

陸が、航世が、玄が、バレーボーラーとしての私を認め、人としての私を認めてくれたからこそ、イップスに押し潰されず、バレー生活を全うすることができました。この3人に対しては感謝しても、し切れません。

今までありがとう。

そして、これからもよろしく。

【両親】
私がバレーボールを突き詰めることができたのは、辛いときも続けることができたのは、最終的にはやはりこの二人が支えてくれていたからです。父と母は、私にたくさんのものを与えてくれました。

まずはこの丈夫な体。この体には何度感謝したことか。何時間練習をしても怪我せず、捻挫をしても一瞬で治る。風邪のときでも食欲はあるし、39度の熱でも練習に行けてしまう。鍛えれば一瞬で筋肉がついてくれるし、ハードな日程も難なくこなす。私はこの体があったからこそ、バレーボールにストレスなく打ち込むことができました。

次に自由な選択肢。高校を決めるときも、大学を決めるときも、私の決断を尊重してくれた両親には本当に感謝しています。自分で決めたからこそ、本気でやり抜くことができました。

そして自己肯定感の高い性格(笑)。この性格に何度助けられたでしょう。イップスになった高校時代、もしも自己肯定感が低い性格でこの困難に直面していたら、おそらく乗り越えられていなかったでしょう。ありのままの私を受け入れながら、溢れんばかりの愛情と程よい厳しさで育ててくれたからこそ、今の私があるのだと思います。

最後に日々の温かいサポート。小学生の時から今に至るまで、本当にたくさんのサポートをしてもらいながら、バレーボールを続けてきました。金銭的な部分はもちろん、日々のお弁当や練習着の洗濯、朝起きたら朝ご飯ができていて、帰れば夜ご飯が準備されていること。全部当たり前じゃないんだと、一人暮らしをして痛感しました。どんなときも、2人との会話はとても温かく、どれだけ体力的にきつくても、精神的に苦しくても、家に帰ればそのストレスから解放されました。

小学2年生からの14年間、特に高校時代は朝5時半に家を出て、夜は22時半に帰ってくる私を、常に後ろから支え、温かく見守ってくれた両親には本当に、言葉では言い表せないほどに感謝しています。本当にありがとう。2人のおかげで、誰よりも濃厚で、楽しくて、辛くて、充実した14年間のバレー人生を駆け抜けることができました。

これからは僕も働くので、いろいろな形で親孝行をさせてください。

【理想】
長かった活動日誌も、ようやく終わりが見えてきました。最後に私がどのような気持ちや考えでバレーボールをしていたのか、その思いを書いていきながらこの活動日誌を締めくくりたいと思います。

私はずっとテーマにしていることがありました。それは「理想の自分に近づくこと」です。理想の自分、この言葉に込められた想いはたくさんあります。自分なりの美学を大切にすること。自分で「カッコイイ」と思える生き方をすること。自分の生き方、考え方、言動に心から満足できること。

私はこのテーマがあったから、どんなに辛いときでも頑張れました。全然プレーが上手くいかなくて、全部投げ出したくなったときも「こんなところで投げ出したら、理想の自分にはなれない」という危機感が、私を燃やし続けました。「理想の自分」は能力、身につけているもの、ステータスとは関係ありません。もっと内面的な、人間としてどう生きるかという根本的な部分。そこにこだわるようになってから、私は一気に成長できた気がします。

どんなときも、私は理想の自分と現在の自分を比較しながら生きています。今の自分の延長線上に、理想とする自分は存在しているのか。たとえば、電車でヘルプマークをつけた人が自分の前に立ったとき、躊躇なく席を譲れるか、一瞬躊躇するか。躊躇なく席を譲ることができたなら、今の自分は理想の自分と結びついているし、一瞬躊躇したなら考え方を改めるべきです。こんなふうに、「今の自分やダサかったな」「今日の俺はダメだった」と日々、反省の繰り返し。悪口を言ってしまう自分。愚痴を吐いてしまう自分。怠けてしまう自分。こんなカッコ悪くて、小さい自分とは訣別して、もっとカッコよくて、大きな自分になりたい。そうした思いを原動力に、私は日々生きています。

それが人間としての成熟、ひいては「幸せ」を目指す生き方でしょう。

バレー人生を通して痛感しましたが、最終的には「自分で自分を認められるかどうか」が一番「幸せ」にとって重要なことじゃないかと思います。

人生は自己実現の戦い。

このことに気づいてから、私はさらに人生が楽しく、面白く、充実するようになりました。

【最後に】
これでもかと言うほどの長文、最後まで読んでいただきありがとうございました。同期と後輩へのメッセージと今までお世話になって人への感謝をここに書きたいと思います。

同期とはどんなときも共に困難を乗り越えてきました。私のバレー観が理解できないときもあったかもしれませんが、最後まで一緒に戦ってくれてありがとう。一回りも二回りも大きくなって、再会しましょう。

後輩のみんなは、とにかく「徹底的に突き詰める経験」をしてください。将来、バレーを使うことはないかもしれません。しかし、突き詰めた何かを持っている人は立ち姿や言動に言葉では表現できない凄みが感じられます。何かを極める経験は本当に価値のあるもの。就活、勉強、友達付き合い、色々あると思いますが、目の前の部活を一生懸命やり抜くことが、意外と人生の近道だったりするかもしれません。ずっと応援しています。

そして、今までバレーボールを通して私と出会い、関係を持っていただいたすべての方への感謝を伝えたいと思います。ここに書かせていただいた恩師、戦友以外にも、たくさんの大切な人がいます。慶應ではOBOGの皆様やサポーターの皆様、本当に多くの方にお世話になりました。ありがとうございました。本当は全員について書きたいぐらいでしたが、名前をあげられなかったことお許しください。

最後に、慶應バレー部にてご指導いただいた星谷監督。星谷さんは大学生である私を一人の大人として認め、同じ目線でコミュニケーションをとっていただきました。急に電話がかかってくるときなどドキドキすることもありましたが、チームに対して私がどんな行動をとっていくべきかをいつも明確にしていただきました。

「自立した人間として組織にどう貢献していくか」を一から学ばせていただいた4年間。未熟な私に2年間も副将という重要なポジションを与えていただき、感謝しかありません。副将として、チームに貢献できたかは分かりませんが、慶應に良い風を少しでも吹かせられたなら、それは本望です。本当にありがとうございました。

長いバレー生活も終わりです。14年間はずっと、バレー中心の生活でした。
イップスになって以来、ずっと待ち侘びた恐怖からの解放。でもやっぱり、もう少しバレーをしたかったし、終わりを迎えたことに寂しさを感じます。

自分の手から離れたトスが仲間の力強いスイングで打ち込まれていく。その楽しさと気持ちよさに、夢中になった14年間でした。トスを打ってくれたみんな、ありがとう。

この14年間は私の人生の原点になるでしょう。
人生はこれからも続きますし、私は成長し続けます。

理想の自分にはまだまだ未到。
大槻晟己の第二章、開幕です。

“未到” への1件のコメント

  1. 田鹿 より:

    まさきさんは僕が目指すべき人間です。

    バレーボーラーとして、副将として、人として、多くを学ばせていただきました。

    自分一人の事で辛いことも多かったはずなのに顔ひとつ変えず、むしろ笑顔で周りに対して働きかける姿を見て、僕もこんな人間になろうと思う様になりました。

    アナリストとして沢山嫌なことを言ってしまったと思いますが、試合で見るまさきさんのトスワーク、熱い姿が大好きで何度も心動かされました。

    引退して会う機会は少なくなりますが、次に会う時はお互いにBIGになって会いましょう!

    4年間本当にお疲れ様でした。

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