平素よりお世話になっております。
アナリストを務めております、商学部3年の鍬塚凛です。
2025年も終わり、いよいよチーム山口の新シーズンが本格的に始動しました。
瞬く間に自身も最高学年となり、いささか重圧を感じておりますが、諸先輩方から受け継いだ熱意と恩義を粛々と後輩にも引き継ぎつつ、この一年を戦い抜く所存です。
しかしその前に、我々部員は年末年始のオフを活用して様々な場所・方法で英気を養っていました。
私も帰省して中学や高校で出会った友人らと談笑していましたが、その中で投げかけられた「不憫」というワードが私の頭に強く残っています。
この「不憫」という言葉は、私が大学の友人と話す中でも度々言われるものです。
複数のコミュニティにおいて、全くの別人から異口同音に「凛は不憫だ」と言われるということは、どうやら自分は「不憫」な人に見えがちなようです。
そもそも、不憫とは何でしょうか。
検索エンジンに語義を聞けば「かわいそうなこと。あわれむべきさま。」と答えます。
何もそこまで悲観される筋合いはありません。しかし、では一体何に対してそれほどに同情されているのでしょうか。
不憫と言われる前後の文脈を鑑みると、「普段のある程度善良な行いに対し、受け取る幸福量が見合っていない」という周囲の評価と幸の薄さへの哀れみが「不憫」というワードに込められていると推察できます。
私自身は身の丈に見合っている幸福を得ていると感じています。つまり、周囲と自分の間には認識の差異があります。ならば友人には
①私の行いに対する過大評価
②私が受け取る幸福に対する過小評価
のどちらか、または両方があるのではないでしょうか。
中でも特に「私の行いに対する過大評価」は大きいでしょう。
しばしば私は「いい人」として振る舞うよう努めてきましたが、それは決して利他的な理由ではなく、あくまで「こうありたい」という自身の理想に従っているに過ぎません。
利他的な行動が人より多いと誤解されている分、幸福のハードルも高くなり、「不憫だ」という認識の差異が周囲と私の間に生まれるのではないでしょうか。
残念ながら私は要領も悪いので、傍目には得られるはずの幸せをこぼれ落としながら生きているように見えるのでしょう。
ただ、当然私は幸せを諦めていませんし、そう見られることは不本意です。
もう二度と「不憫」と呼ばせないような身の丈以上の幸せを掴むため、今後ももがいてまいります。
私にとって、そんな身の丈以上の幸せを掴むための最たる挑戦が、このバレーボールです。
中高と無名選手かつ特別な技術もない自分が、才能溢れる選手に小言を言ったり指示を出し、あろうことか関東一部の舞台に戻ることを切望しています。
私にとって関東一部でバレーをすることは「身の丈に合わない幸せを掴むこと」なのです。
ただし、関東一部が塾バレー部の身の丈に合わない場だとは全くもって思っていません。
自らも関東一部にふさわしいアナリストになるとともに、ふさわしい塾バレー部を今後形作るうえで貢献できるよう努めてまいります。
今後とも塾バレー部への熱いご声援のほど、何卒よろしくお願いいたします。
乱文失礼いたしました。