男子

砂金(リマインド)

商学部4年  鍬塚 凛

平素よりお世話になっております。
商学部4年になりました、アナリストの鍬塚凛です。

鍛錬の冬が明け、間もなくリーグ戦が開幕します。先代アナリスト達の命を燃やす姿を見てきた私は縮み上がる思いで開幕を待っていますが、幸い私の横には頼もしい学生コーチと心強いアナリストの後輩達がいます。このアナリストチームで、このチーム山口で再び一部復帰へ挑戦できることに、いささかのワクワクも感じております。
私達4年生にとっては最後の春リーグかつ、1部の景色を再び見ることのできる最後のチャンスとなります。必ずや良い結果をお伝えできるよう、努めてまいります。

さて、本日は過去の名作活動日誌に触れさせていただきたいと思っております。
誰よりもこの部の活動日誌を読み漁っている自信のある私(玉島・文3と同率かもしれません)ですが、これまでの3年間で特に印象に残っている日誌があります。いくつかありますが、今回ご紹介したいのは敏貴さん(今田・24卒)の「砂金」という活動日誌です。

今回はこの日誌に登場する「砂金」について、私なりの考えを添えて再度紹介させていただきます。
敏貴さんが触れたのは、太宰治の「正義と微笑」にある次のような一説です。

「学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。
けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。」

敏貴さんはこの一節を体育会活動に当てはめています。明確なビジネススキルを培うわけでも学問を修めるわけでもなく、得るものが不明瞭な体育会という組織に4年間身を置き、砂を掴み続けた学生は、どんな「一つかみの砂金」を得るのだろうか。という問いを提起しました。(その答えは、学生各人の引退日誌にあると思います。部活動問わず、贔屓目なしで名作揃いです。ぜひご一読ください。)
私も机に向かう学習だけでなく、バレーボールや友人との交流、新たな場所へ行ったり恋愛をすることもすべて「勉強の訓練」と捉えているため、この一節とその解釈が深く突き刺さりました。

ひょっとすると、バレーボールやそれらを「勉強の訓練」ととらえることに違和感がある人もいるかもしれません。

確かに経済が分からなければ大損をこく可能性がありますが、スパイクの打ち方が分からなくても1円も損をしません。
法律を知らなければ困る場面は多々ありますが、二段トスのコツを知らなくてもちっとも困りません。

バレーボールがそのまま実生活に寄与するはずがないにもかかわらず、私達は泣いたり怒ったりしながらボールを追いかけ、様々な物を犠牲にして莫大な時間を費やしています。
非合理の極みですし、真っ当な勉強とも言いにくいでしょう。

効率的な学びとは程遠いにもかかわらず義塾バレー部に入る選択をしたということは、これまでのバレー人生の中で得た「砂金」を潜在的に理解しているからではないでしょうか。
それは厳しい練習で得た屈強な身体や精神という分かりやすいものかもしれませんし、日常の些細な立ち振る舞いに表れるものかもしれません。この辛く無意味に思えてしまいそうな経験が、あらゆる形で自分を形成する糧だとどこかで気づいているのでしょう。

同様に重要なことは、たくさんの砂を掴まないことには十分な量の砂金を得られない、ということです。遠回りに見える挑戦、失敗の経験の中にも輝かしい学びは眠っていますし、その存在と価値は全てが終わった後でないと実感することはできません。
我々は挑戦の中にある砂金の存在を知っていつつも、がむしゃらに砂を掴むこと(挑戦と失敗を繰り返すこと)をつい怖がり、避けようとしてしまいます。それは仕方ないことであると同時に、非常に勿体無いことでもあります。
「ほらね、無理だと言ったでしょ」と誰かの挑戦と失敗を否定せず、砂を掴もうとする仲間を笑わないチームでありたいと私は思っています。

末筆にはなりますが、来週4/11(土)より、春季リーグ戦が開幕します。皆様のご来場と熱いご声援を心よりお待ちしております。

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