日頃よりお世話になっております。
経済学部3年の林賢治です。
最近4年ぶりくらいに彼女ができて、愛について考える機会が増えました。思うに、愛とは恋や恋愛のような「感じる」ものではなく、「する」、与えるという行為そのものです。恋に落ちる高揚感だけの関係、相手を所有・依存の対象にすること、「愛されたい」という欲求の充足、相手を変えようとする操作・支配のようなものは愛ではなく、単なる自己中心的欲求に過ぎません。愛とは、相手の幸福・成長を気にかけ、相手の欲求に自発的に応答する姿勢をとり、相手をあるがままの存在として認め、相手を本当に知ろうとする努力をするなどといったような、他人に対して「与える」という行為や能力そのものです。そして、何かを愛すということは、それを取り巻く全てに関心をむけ、愛するということだと思います。
バレーボールを愛すということは、ただバレーをするだけでなく、バレーをしてくれているチームメイト、相手、スタッフ、応援してくださる方々、その他どんな形であれバレーに関わっている人々に対して、何かしらを与え続けるということです。例えば自分のチームメイトであれば、先輩や後輩、波長が合う人や自分が苦手な人に関係なく、平等に、相手を尊重して相手の成長のために与え続けなければなりません。しかし、チームのためとはいえ、自分の嫌いな人に対しても深い関心を持ち、相手の成長を願い行動し続けることは、とてつもなく成熟した自立性や精神性、そして粘り強さがないとできません。だからこそ、愛というものは成し難い行為なのだと思います。
以前の私は、正直にいうと自分のためにしか生きておらず、部活に入った理由も自分がバレーを上手くなれればいいと考えていたことが大きく、別に他人に何を言われても気にしないし、他人がどうあろうと別にいいし、プレーができるのなら他人に何を言われようと別に気にしていませんでした。人間関係もそれなりに上手くやっていたと思っていますが、他の部員の指摘しなければいけない悪い部分や自分が間違っていると感じた制度やルールも、人間関係に亀裂が入って面倒という理由で、それを放置してきました。私は、自分は自分で、他人は他人で、自分の意見を誰かにぶつけたとしても、究極的には他人を変えることはできないと思っていたので、他人が変わってくれないから腹立たしいとか、他人がこれをやってくれないからムカつくというのはあまりありませんでした。どうせ他人を完全にコントロールすることはできないのだから、他人の行動によっていちいち一喜一憂するのは非効率だからやめたのです。つまり、他人に対して全く期待を持たず、共感能力をゼロにしていたのです。しかし、だがしかし、本当に必要だったことは、たとえ私の嫌いな人が私の意見を否定し、自分に対し傷つくような言葉を吐いたとしても、それでも相手の幸福や成長のために、相手が変わってくれると信じ続け、与え続けることだったのです。そしてこれこそが、愛するということではないでしょうか。
私には人生で二人のロールモデルがいます。一人は中学生時代の国語教師で、もう一人は「日々是好日」が座右の銘の現在30代の教育者です(以後日々さん)。今までにも、私が尊敬できる人は数多くいました。単純に考える能力が高いとか、言語化能力が高いとか、尊敬できる人の特徴をあげ出したらキリがありません。しかし、この二人にはこのような能力以外にも、当時は何かはわかりませんでしたが、何か卓越した思想が宿っているように感じたのです。去年の10月、そんな日々さんと面談をした際に、こんなことを問われました。
「どうしたら林の能力をもっとバレー部に貢献できると思う?」
その頃の私は、メリットがない限りは他人に対して何かを施さないという考えだったので、正直回答に困りました。その頃は、利他性のかけらもなかったように思います。この一件からしばらく自分なりにずっと考えて、前述したような愛が必要だと考えたのです。
他人に与え続けるという行為は、自分が貧窮するのではなく、むしろ豊かになることだと思っています。なぜなら、他人を成長させようと思ったら、相手の機微な変化に対しても気づかなければならず、それを成すには自分が多様でなければいけないからです。最近私は、ビートボックスを聞いてみたり、ラップを聞いてみたり、モーツァルトを聞いてみたり、ピカソを観たり、南米の民族ダンスを見たり、スリランカ料理を食べてみたり、目玉焼きにケチャップをかけたりと、常に多様なものに触れることを意識しています。この習慣によって、自分自身の多様性や思考の幅を豊かにすることができると思っていますし、実際そう感じます。このように、他人に対してより多面的な気づきを得るために、自分自身を豊かにする必要が出てくるのです。
ロールモデルである二人が持っているなにか卓越しているものの正体について、今思うとそれは「博愛」なのだと思います。誰であろうと平等に期待し教育する、その姿勢、その思想こそが、彼らを特別たらんとするものであり、私が目標にするべき能力だったのです。
バレー部にも、私が尊敬している博愛主義者がいます。昨年主将の山元康生、現在4年で学部生コーチの熊谷健太、同期で学連の田渕美里、2年の中島。彼らが発揮している博愛の精神には、いつも本当に感服します。
以前の私だったら、やさしい彼らに対して、つまり自分のリソースを割いて他人に施しを与える彼らに対して尊敬など微塵もしていなかったと思います。マネージャーやアナリスト、監督のような選手以外の方々は、実際にプレーをしないのにどんな理由で、苦労してまでその職についているのだろうと考えていました。でもそれは逆で、彼らは部に対し与え続けることで、支え続けることで、自分自身を豊かにしていたのです。ものすごく遅いですが最近になって、ようやく彼らの偉大さを知りました。いつもありがとうございます。
愛と近しい単語として、やさしさが挙げられます。そもそもやさしいとは何でしょうか。やさしいという言葉の定義として、以前読んだ何かの本でしっくりきたものに、このようなものが挙げられていました。やさしさとは、単に自分のリソースを与えるだけでなく、その後の「行動責任」までしっかりと取ることである。例えば、自分の子どもが公園の砂場で遊びたいと言って、汚れるのが嫌いなあなたはそれを渋々許可したとしましょう。子どもに対し、「ちゃんと汚れないように遊んでね」と忠告したにも関わらず、子どもは逆に泥まみれに帰ってきてしまいました。これでは、服も洗わないといけないし、お風呂にも入れてあげないといけません。このような状況の時、あなたはどうするでしょうか。普通なら、怒るということが選択肢に入ってくると思います。しかし、先ほどのやさしさの定義によれば、子ども自身に責任が問われるべきである、服や体を汚した行動に対してさえも、自分が責任をとって、始末をつけるべきということになります。
バレーボールにおいて、上述したようなやさしさは、セッターにこそ必要ではないかと最近思っています。セッターはチームの頭脳でありながら、最後には必ずトスを誰かに託さなくてはいけない存在です。託されたスパイカーももちろん責任重大で、絶対に決めきらなければなりません。しかし、もしもスパイカーがブロックに捕まってしまったり、アウトにしてしまった場合は、セッターもその責任を問われます。
2月ごろ、セッターの松田(2年)が、身長もそこまで高くなく、ジャンプ力もそこまで高くない私に対してトスをあげ、決めるべきトスをミスにしてしまうというシチュエーションが何回か起こったのに対し、彼は怒って私に責任を追及するどころか、「責任は自分が取るんだ」、「けんじさんに決めさせてこそのセッターだ」と言っていたというのを課題の共有、振り返りがペアだった緒方(3年)から聞いて、彼の人間としての成長を感じました。私のイメージでは、彼はハイキューでいうところの影山のように、幼稚で横暴なところがあると思っていましたが、彼がやさしい人間に成長していて、すごく感動しました。もちろんまだ未熟なところはあると思いますが、彼のやさしさや思想が、リーグ戦や早慶戦の土壇場で発揮されて、人間として成熟したプレイヤーであるということを見せて欲しいと思っています。もし将来プロになることがあれば、これからさらに成長するであろう卓越的精神性を見せてほしいです。
余談ですが、やさしいという言葉の語源は、動詞「痩(や)す」が形容詞化した古語の形容詞「やさし」から来ており、自分が痩せ細ってしまうほど他人に何かを与えるという意味合いがあるようです。松田(2年)にはもっと筋肉をつけてもらった上でやさしくなってほしいですね。
イエス・キリスト曰く、「汝を愛し、汝の敵を愛せよ。」
マハトマ・ガンジー曰く、「常に愛を持って人を動かしなさい。」
歴史上の偉人たちのように、私自身も、自分自身の土壌を耕し、私が愛していることを取り巻くものさえも愛したいと思います。もう以前のように、見て見ぬふりはしないよう努力し続けます。そうすることで、関わってくださっている方々や、応援してくださっている方々に、エネルギーを届け、感動を与えたいです。関わってくださっている方々、いつもありがとうございます。愛しています。
乱文失礼いたしました。
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