平素よりお世話になっております。
2025年度主将を務めておりました、法学部法律学科4年の山元康生です。
最後の練習を終えてはや1か月が経とうとしています。
全カレ直前は、引退したら寂しくなりそうで嫌だなあとか思っていましたが、いざ引退してみると、案外解放感は大きく、充実した楽しい日々を過ごせています。
それでも練習前後での会話や戯れ、慶應湯、午前練の日には9:30になるとSNSで快人(山口・経3)の起床を確認していた日々もあったなあ、とかなんだか懐かしく、恋しく思えてきます。
さて、これまで6日間にわたって投稿された同期のラスト活動日誌があまりにも文才に溢れておりましたので、最後を飾る者として素敵な文章の数々を超えることは到底できませんが、僕なりに経験してきた思いを素直に、ありのままに書いていこうと思います。
スマートフォンでご覧になっている方は、スクロールバーにてその分量を察してしまうかと思いますが(多分去年の裕介さんくらいあります…)、年末年始に突入していることかと思いますので、炬燵に入って心の疲れを癒しながらお付き合いいただけますと幸いです。
<今年一年間の思い>
主将は、試合に出てコート上で引っ張ることができる選手が務めるべき。
僕は高校時代の経験から、体育会で共に過ごした3人の主将の姿から、強くそう思っていました。今でも基本的にはその考え方は変わりません。
2024年12月10日、納会で主将を拝命した時も正直、自分がリーダーとしてみんなを引っ張っていく未来は全く見えなかったです。大学3年までの僕にキャプテンシーを感じたことはなかったと思いますし、自我の塊である大学生30人越えを束ねる自信なんてありませんでした。それに真古都さん(2023卒)、航希さん(2024卒)、大昭さん(2025卒)と自分にとって憧れのような、自分には遠いところで輝いているような歴代キャプテンたちを目にしてきたので、同じ姿ではなくていいんだと思いつつも、結構重圧に感じていたりもしました。
それでも、大役を務めるからには、責任と覚悟を持ってその責務を全うすること、そして全員が一丸となって一部復帰を果たせるチームを作ること。その決意だけは、強くあった
ように覚えています。
「試合に出ていない主将の役割とは何か」
僕にとってこの1年間、いくら目を背けたくても、頭から切り離したくても、どこにでも付きまとってきた永遠のテーマでした。
初めは、みんなの前で何かを伝えることも、自分の信念や作りたいチームも曖昧でした。春リーグでは全く結果が出ずに、夏には、主将としてどうありたいのか、何を成し遂げたいのか、分からなくなった自分に目を背けかけていた時もありました。そんな自分に、記念館で、立教大学の練習試合後に誰もいなくなった体育館で、幾度となく星谷さんとお話し、進むべき道を示してくださったこと、本当に感謝しています。
夏の終わりごろから、少しずつ形が見えてきたような気がしています。一部復帰を果たすためには、下級生の力が必要で、そんなみんなの力を最大限に発揮させるにはどうすれば良いのか。誰も置いていくことなく一部復帰を達成するチームを作るために、とスタメン、ベンチ、ベンチ外、スタッフ、立場に関わらず全員とのコミュニケーションを大切にしていた自分にも、それぞれに求める役割を時には厳しく伝えることができるようになったと思います。そして今では、「一人ひとりが自分の役割を全うすること」、これが信念だと言い切れるようになりました。
こう書くと綺麗事のようですが、チームが勝つためにみんなにはたくさんの制限と迷惑をかけてしまいました。自分の役割に徹するべきと言いつつも(選手は本来、バレーボールで貢献することがモチベーションであると分かっていたにも関わらず…)、勝利に拘るために練習参加メンバーを大幅に絞った結果、一部の選手から満足な練習時間を奪ってしまい、そしてそれを長期にわたって強いてしまったこと。膨大な業務量があるにも関わらず、フロアに出て球出しや球拾いをしてくれたスタッフ。本当に申し訳なかったです。なんのためにこの組織に入ったのか、分からなくなってもおかしくない中で、最後まで戦い抜いてくれてありがとう。
少し話を戻しますが、僕は人に頼ることが苦手であり、自分に対して強い自信が持てない、人からの評価・信頼をすぐに気にしてしまう人間です。人から嫌われたくなかったし、良くない行動をしたらみんながついてこなくなるんじゃないか、そんな不安とずっと隣り合わせでした。
だから、一つの決断を下すごとに聞こえてくるみんなの声を聞いて、その表情を見て、し
んどい思いをしたこともたくさんありました。言いたくはないけど、勝つためには仕方ないじゃん、分かってよ、なんて思うこともありました。
またこんな性格なので、組織の先頭に立つ人間のあるべき姿を常に見せなければ、と弱音を吐くことなく、リーダーとしての模範解答のような行動に縛られ、そして求められている期待に応えようと無意識に自分を追い込み続けていた気がしています。
それでも人に弱みを見せたくないなんていう強がりもあって、苦しいことを苦しいと思わないようにしていました。でもそれが苦しかったんだなと、今になって振り返ると感じています。
ただ、ギリギリのところで自分を奮い立たせて頑張ることができたのは、同期であり、言葉とプレーで救ってくれた仲間たちでした。のしん(平山・商4)、入来(環4)、航大(商3)、玲央(総1)、この4人には直接的な言葉やMTGの議事録を見て、本当に救われていました。僕は人から褒められても、素直に受け取れないところがあるので、「本当にそう思ってるの?」と感じて、ぎこちなく「ありがとう」としか伝えることができていなかったような気がしていますが、その言葉に心から支えられていました。もちろん他のみんなも同じで、試合に出られなくてもひたむきに声を出し続け、積極的に自主練習に励む姿に。そしてスタメン陣には、秋リーグの日大戦での勝利に僕はとても救われたと感じていました。
全カレの学芸戦の勝利は、みんなの強い想いがあったからこそ起こせた下剋上だったと思います。決して器用なことは出来なかったし、そもそもコートにすら立っていない、こんな僕のことを信じて、最後までついてきてくれて、そして闘志全開で最後まで戦い抜いてくれてもみんな本当にありがとう。
ここで先日の納会で伝えることができなかった後輩へのメッセージを書かせてください。
どうか、どんな時でも必ず快人の味方でいてあげてください。
リーダーは、不安であり、孤独であり、矢面に立ちます。決断には、常に賛否両論が生まれるので、精神的に追い込まれることもありますし、快人はスタメンとしての役割もあるため僕の比ではないくらいの重圧を背負って戦うことになると思います。
決して快人の考えを全肯定してねと言っているわけではなく、意見が異なっていればそれはリスペクトを持ったうえで、直接言葉で伝えてあげてほしいし、良いところは沢山褒めてあげてほしいと思います。(快人も褒められても反応は薄いかもしれませんが、笑)
みんなの本心や表情が分かることで、組織の先頭に立つ人間は進むべき道を、自信を持っ
て決められるはずです。快人自身が頑張るのはもちろん、同期、後輩がどんな時も快人についていってあげて、近くにいてあげてください。みんな頑張ってね。
<10年間のバレーボール>
嬉しくて、救われた気がして、悔しくて、苦しくて、たくさんの涙を流してきました。恥ずかしながら塾バレー部でも、泣いているイメージを持たれていたと思います。バレーエリートとしての道を歩んできたわけではありませんが、その中でも自分にしかできないたくさんの経験ができたと感じている競技人生を振り返りたいと思います。
中学1年生の時、同じクラスで出席番号が前後だった柊と、「一緒にやらね?」なんて会話がきっかけで始まったバレーボール生活も気付けば10年になりました。
中等部では、栃堀さんをはじめとする先生方、吉村さん(2018卒)、将大さん(2022卒)などの学生コーチ、そして大学でも共に過ごしたたくさんの先輩・後輩に出会いました。
中でも、中等部入学初日に柊と出会えたことは、僕の人生にとっても特別な出来事だったと思っています。
中等部バレー部で最初の苦い記憶は、1年生の夏合宿での転がしワンマン。吉村さんの愛のある球出しの結果、過呼吸になるほどの大泣きをしたことは今でも忘れられない経験ですが、自分の限界を一つ越えたような感覚があり、それまではお客さん気分でバレー部に行っていた自分にとって、あの時からバレーボール人生がスタートしたような気がします。
洗濯物を回収し忘れたから、時間を守れなかったから(これらは大切なことでした)、声が出ていないから(コーチの主観で⁉)、数を数え間違えたからと様々な理由で延々と走らされるなど、たくさんの理不尽がありましたが、その中で今にも繋がる基礎基本をたくさん学ぶことができました。
高校の進路決定の際、SFCへの進学に傾いていた柊をどれほどの時間をかけて説得をしたことか。お互い別々の道を歩みながらも、また大学でチームメイトとして共に時間を過ごせたこと、本当に嬉しかったです。
高校では、バレーボール漬けの日々。1年生のころは朝から夜まで球拾いと声出し、試合後には先輩のシューズの紐をほどいてマッサージをする。遠方の練習試合の時には朝5時に家を出て、ボールを触ることなく、夜に帰宅するというような生活でした。京都遠征から帰ってきた足で、夜の8時から自主練なんかもしていました(なんで体育館が使用できた
のかは分かりませんが)。それでもどんな時でも一緒にいた一木(法4)をはじめとする同期や、渡辺先生、そして航希さん、大昭さんなどの先輩方、そしてたくさんの後輩たちに出会いました。
彼の活動日誌にもありましたが、やはり僕にとっても一木との出会いは本当に特別であり、出会えてよかったと心の底から思っています。
上級生となり、試合に出場する機会が増えてからは、プレッシャーそのものや、周りの同期との熱量の差に不満を抱え込むようになりました。自分のプレーが思うようにいかず体育館の地下で泣いていた時には一木が寄り添ってくれました。色々な思いを抱え込みすぎた末に爆発した結果、2階のギャラリー席の暗闇で大号泣したときには渡辺先生から沢山の言葉をかけていただきました。
塾高時代に忘れられないのが、3年時の春高予選準々決勝・川崎橘戦です。勝てば実質全国出場となった試合でフルセットの末に敗れたあの経験は、大学でバレーを続ける原動力にもなりました。とにかく悔しくて、悔しくて、弥栄高校の体育館脇の通路で涙を流しました。誰かに、うるさくて体育館でやってる試合に迷惑がかかるからと、移動させられたような記憶も若干残っています。3年間の幕切れとなったあの試合は、今でも鮮明に覚えています。
周囲を一切頼れなかったことで、何度もつぶれかけ、周りにも気を遣わせていたと思います。それでも、一木をはじめとする同期や渡辺先生に何度も何度も助けられながらの一年間だったなと思っています。本当にありがとうございました。
学業<バレーボールという、学生の本分を逸脱していたような気もする3年間でしたが、とても楽しく充実していました。
大学では、迷うことなく体育会の道を決断し、入学前から練習に行きました。
大学1年生。右も左も分からない中で、春リーグから試合に出場する機会をいただきました。目の前のことに精一杯で、一試合一試合に高校の全国大会県予選のような熱量を注ぎ込んで戦ったけど、自分に余裕がなくて、大切な事が分からなくて、同期や仲間から孤立していた時もありました。春の入替戦では、大量のサービスエースを取られた結果、チームは二部降格となり、駒澤大学のあの体育館がトラウマになりました。そして追い打ちをかけるように、レギュラーから外された出来事はこれまでの人生で一番心に刺さりました。スタメンから外された日に、泣きつくように電話をかけ、急遽家に泊めて話を聞いてくれた一木と家族の皆様には本当に感謝しております。
今の僕の正直な思いは、当時の4年生ともう一回一緒にバレーをしたいです。話したいです。僕が未熟すぎたせいで、一緒に過ごせた貴重な時間をたくさん無駄にしてしまったこ
とは、この4年間で最大の後悔です。
大学2年生。まだまだ余裕はなかったけど、一部で戦える日々が、バレーボールがとにかく楽しかったです。航希さん、晟己さん(2024年卒)、喜輝さん(2024年卒)の存在は偉大で、たくさん助けてもらいました。早慶戦に初めて出場し、コートから見たあの応援席の景色は一生忘れません。
そして秋リーグの入替戦は、10年間のバレーボール人生の中で、最も記憶に刻まれた試合となりました。大1の入替戦でのトラウマやメンタルの弱さがもろに出た試合でした。何をしてもうまくいかなくなったあの約2時間の試合は、自分にとって地獄のような時間でした。それでも、最後に勝ち切れたことで全てが救われたような気がしました。試合後の全体写真も、同期写真も顔がぐちゃぐちゃな事だけは悔しいですが、何度あの場に立っても感情をコントロールすることはできないと思っています。
5セット目の僕のブロックフォローはたくさんの人が褒めてくださりました。正直、僕の記憶にはあまり残っていないのですが、何も実績のない自分が誰かの記憶に残る、周囲の人の心を動かすプレーができたことは嬉しかったですし、「いつやってくるのか分からない一瞬のチャンスを掴み取ること」とは何か、身を持って経験することができたと思っています。
全カレでは、謎の捻挫?をしつつも、のしんとWリベロでベスト16まで行けて最高の思い出です。
この一年間、健太(商3)には毎日のように練習に付き合ってもらいました。自主練で1、2時間くらいサーブを打ち続けてもらったことでスキルを高めることができたって言い切れる。あの健太の球出しは、健太以外には再現できない最高の球質でした。中等部から9年間、本当にありがとう。
大学3年生。上級生にもなり、自分の存在価値を考えさせられる一年でした。前半シーズンは、試合に出場する中で、少しずつ生まれてきた余裕をどんな形でチームに還元すれば良いのか、ずっと考えていました。一方で後半シーズンは、再び試合出場から遠ざかったことで、自分にはどんな形でチームに貢献できるのか、について考えるようになりました。今振り返ると、あの時に答えは出ませんでしたが、この一年間で競技以外の部分や試合に出ていないときの役割に目を向けたことがラストイヤーに繋がったと思っています。
全カレでは、ずっと一緒にやってきた先輩たちの引退の寂しさと、自分たちの代が始まってしまう不安で、ずっとこのまま時間が止まればいいのになんて思っていました。だからこそ、早稲田戦の敗北と大昭の怪我が同時に起きたあの日は、色々な意味で本当に辛かっ
たです。
大学4年生の一年は最初に書いた通りで、10年間の集大成として自分にしかできない経験をした良い時間でした。秋リーグの日大戦は今年流した唯一の涙でした。これまで積み上げてきたチームの方向性は正しかったのか、霧で覆われていたようなモヤモヤが確かな確信に変わった瞬間であり、学芸戦かそれ以上に嬉しくて、これまでやってきたことが報われたと感じた勝利でした。
MTG大好き人間(誰が名付けた?)という点だけは何も変わりませんでしたが、柊も納会で言っていた通り、主将って何すればいいのか、とか、どうやって人に物事を伝えれば良いのか、何もわからず質問を浴びせていた時と比べれば、少しはリーダーの責務を全うできたのかなと思ってます。
組織の先頭に立つ人間には、
・これまでの経験をもとに得た高い視座で物事を決断すること
・自分の信念をどんな時でもぶらさない事
が必要で、そのためには自分を信じ、勇気をもつ必要がある。
この2つの大切さを経験できただけでも、ものすごく有意義な一年でした。
たくさんの素敵な仲間と出会い、ともにバレーボールができました。1つ上の先輩方とみんなでサウナに行ったり、喜輝さんの家に遊びに行ったり、航希さんと一緒にビーチバレーをしたこと、たくさんの思い出があります。大昭さんには、近大合宿の時に熱中症で倒れかけていたにも関わらず、自主練習の球出しをしてくださったり、裕介さん(2025卒)からは、試合中の振る舞いについて言ってもらえたことや日々の練習に取り組む姿勢を褒めて信頼してくださったと感じていて、本当に感謝しています。後輩にもたくさん助けられました。最上級生が試合に出ていない状況でも、最後まで必死に戦い抜いてくれたこと。こうであってほしいと僕が求めた理想に全力で向き合ってくれたこと。最後、学芸を倒して大田区総合の景色を見させてくれた後輩たちには本当に感謝しています。
10年間、嬉しいことも、悔しいこともたくさんありました。たくさん泣きました。今振り返ると、涙を流したタイミングは自分が一つ大きく変わるきっかけになっていたと思います。不器用なりに全てのエネルギーを注ぎ込んで、精神をすり減らしてやっていたんだと思いますが、そんな本気でバレーボールに向き合えていた時間が幸せでした。最後の全カレで学芸に勝った時には、あれ今日は泣かないの?と誰かに言われたような気もします
が、あの時はみんなを、この一年間やってきた自分を、信じ切っての結果だったので、涙ではなく、言葉に表せない嬉しさに包まれていました。
周りの仲間のおかげで色々な経験をして、最高の景色を見て、修羅場を乗り越えられたと思っています。中学時代を知る柊、高校時代を知る一木の2人ともから、いつも自信なさそうだったよねと言われていた自分も、体育会生活を通して、少しは強く、たくましくなれたような気がします。
僕にとってかけがえのない、何にも代えがたい幸せな10年間でした。
<感謝>
長くなってしまって恐縮ですが、ここからはお世話になった方々への感謝の思いを綴ります。
【杤堀さんへ】
中学3年間ありがとうございました。現役時代はずっと怖い人のイメージが強くて、怒られないように必死でしたが、引退してからは高校、大学ともに結果を気にしてくださり、早慶戦や最後の全カレにも会場まで足を運んでくださったこと、栃堀さんからの愛を感じたような気がして本当に嬉しかったです。中1の4月、バレー部を選んで良かったなと心から思っています。中等部バレー部卒業生としてこれからも恩返しできるように頑張ります。またお酒を飲みに行ける日を楽しみにしています。
【渡辺先生へ】高校3年間ありがとうございました。高3の時に僕を試合に使ってくれたこと、色々なことを勝手に一人で抱え込んでいて、それはそれで厄介な存在だったと思いますが、あの環境でやり抜いた経験は大学でもたくさん活きました。練習後に会堂の2階席の暗闇で話を聞いてくださり、本当にありがとうございました。あれがあったから、ここまで来れたと思っています。何度か試みたもののタイミングが合わず、まだ直接挨拶できていませんが、近日中に一木と顔出します。
【星谷さんへ】
4年間ありがとうございました。今年一年でこれまでの3年間を超える会話をしたと思っ
ています。特に最後の期間では僕の思いや4年間についてもお話できたのでここでは省略させていただきますが、大学で指導者として星谷さんに出会えて本当に良かったです。答えが分かるのはまだまだ先になると思いますが、哲学的な考えやメンタリティの部分含めてたくさんの影響を受けたと思っています。この経験を糧にしてこれからも新しい世界で一から頑張りますので、たまに近況報告ができれば嬉しいです。
【三田バレーボールクラブの皆様】
4年間、お世話になりました。皆様の支えがあったからこそ、この環境で何不自由なく競技に打ち込むことができたと思っております。また、リーグ戦の会場が遠い中でも数多くの試合に足を運んでくださったこと、本当に感謝しております。結果は望んだものではありませんでしたが、塾バレー部で過ごした4年間を誇りに思います。数少ない機会ではありましたが、レセプションなどでお話できた時間は楽しかったです。
今まで本当にありがとうございました。
【吉村さんへ】
限界を知らないコーチと言われていたのもあって現役時代は正直怖かったです。笑
それでも高校、大学と進んでいってからも試合結果を追って、またご飯にも連れて行ってくださり本当に嬉しかったです。まさかあの中等部の体育館にいた4人が、体育会で主務・主将をやるとは思ってもいませんでしたが、ここまでやってこれて良かったなと感じています。上にも書きましたが、吉村さんの転がしワンマン@潮来から僕のバレー人生は始まっているので、改めて出会えてよかったと思っています。これからも一大先輩としてたくさん飲み行きたいです!
【両親へ】
10年間ありがとうございました。早朝や夜遅くに何度送り迎えをしてもらったことか、そして中学、高校のお弁当から、大学では夜遅くの帰宅にも関わらずバランスの良いご飯を準備してくれて本当にありがとうございました。見えないところでもたくさん支えてくれたと思っています。バレー部はもちろん、友人や先輩後輩とたくさんの大切な人に出会うことができました。ここまで来ることができて感謝しかないです。どんな時でも自分がやりたいことを尊重してくれ、それでいて経験すべきことはしっかりと経験させてくれた教育は、すごかったなと思っています。22年間、良い教育をもってここまで育ててくれてありがとう。4月からは環境が大きく変わるので不安でいっぱいですが、また自分らしく頑張ります。
最後に同期。僕の扱い方を一番熟知していて、たくさんいじってくれて、たくさん助けてくれて本当にありがとう。周りの人からも言われているように仲の良い代だったと思っています。それでも一部員として、そしてラスト一年は主将として、同期と一緒に行動しすぎるのは良くないんじゃないか、とか色々考えた時期もあり、たまに孤立していたようなこともあったと思いますが、同期は間違いなく僕の一番の支えになっていました。大2の時のモチベーションビデオ事件を許してくれた同期には感謝してもしきれません。
後輩たちにはメッセージカードを書きましたが、同期だけ伝えられてないので、簡単にだけど一人ずつ書いていきます( 自分のとこだけ読んでね )。
【入来へ】
正直、ごめんとありがとうが交錯してます。最上級生として唯一コートに立つ苦しみを俺は分かっているようで、分かったつもりになっていたような気がして。たくさんのことを求めようとしたし、時には厳しいことも言ってしまったと思う。だって期待せざるを得ない選手なんだから。それでも誰になんて言われようと最後までエースとして引っ張ってくれたこと、入来がいなかったらこの代は誰の記憶にも、記録にも残ることなく終わっていたと思う。スタメンのタイミングが入れ違いになっちゃったから、同じコートでもっと戦いたかったな、って今でも思ってるけど、それはもうどうしようもないね。最後の最後まで、夢を見せてくれてありがとう。これからもSNSとかで入来のスパイクが流れてくるのを楽しみに待ってます。
【歩奈へ】
心配するとか無用の心強さがあった。後輩苦手って言いながらも、選手ともコミュニケーションをたくさん取っていたからこそ、信頼できる、される渉外主務だったと思ってます。バレーボールという競技そのものを愛しているのがめっちゃ伝わってきたし、バレー部を、自分たちをより多くの人に知ってもらおうと行動してくれていたのは素直に嬉しかったな。バレー部のスポットライトが当たらない部分を4年間支え続けてくれて、練習中、自主練のサポートもたくさんしてくれて本当にありがとう。次回はモン・サン・ミッシェルでお会いしましょう。
【健介へ】
今年のチームのキーマンって言ってたけど、結構それ当てはまってたなと思ってて。思ったことはちゃんと言ってくれるし、後輩とのコミュニケーションもうまい。俺が主将モー
ド(誰が言い始めたんだか。)の時間が多かった中でも、自然と真逆のアプローチをしてくれてたような気がして。そのおかげで俺が把握しきれないみんなの考えとかを知りながら一年間やってこれたなと思ってます。本当にありがとう。やっぱり健介と一緒にコートに立って日大戦で勝った時の、あの試合は忘れられないな。これからも腕まくりでもなんでもいいんで、たくさんいじってください。(美味しがってはないです)
【のしんへ】
誰よりも俺への信頼を口にしてくれたと思ってる。「康生がキャプテンで本当に良かった」の言葉は、何回か言ってくれたと思うけど、一番最初、夏に聞いたときに本当に心が救われた。言葉で伝えるってこんなにも強い力があるんだって思った。自信もないし、なんて返せば良いのか分かんなくて、感謝を伝えられてない気がするから今この場でお礼を言いたかった。本当にありがとう。バレーへの向き合い方、人を巻き込んでいく力、物事の推進力、言葉で伝えるチカラ、のしんが持ってるたっくさんの強みは、何回も助けられたし救われたし、このチームを作っていく中で必要不可欠だったよ。リベロ同士でちょっと気まずかった?時期もあったようななかったような感じだけど、Wリベロで戦った試合はどれも思い出深いし、嬉しかったな。ひそかに駐在先が同じ国になる日が来ることを楽しみにしてます。
【柊へ】
なんて表現すれば良いんだろう。慶應義塾が一貫校だったから実現した再会。中学時代は一番一緒の時間を過ごしたよね。お互い違う場所で頑張って、色々な経験をして体育会で一緒にプレーできたのは本当に嬉しかった。高校を挟んで、ちょっと変わっちゃったのかなとか思いつつ、なんだかんだでお互い変わってないじゃんって感じたのも嬉しかったりしたなあ笑 中等部からここまで、よく頑張りました。普段はあんまり伝えてこないけど、納会でああやって話してくれて、あぁちゃんと見ててくれたんだなって思って泣きそうになっちゃった、。柊が選手、主務、留学とかで悩んでた時、練習中の課題の共有で突然いなくなって泣いてた時、そばにいてあげられなかったのはすごく後悔してる。今年の早慶戦、主務としてたくさん準備をしてくれた中で、4セット目に柊がコートに立ってる姿を見て本当に感動していた。あ、柊のためにあった早慶戦なのかもなあって思ったくらい。自分事のように嬉しかった。人には見せないけど、いつも不安とともに戦っていたはずで、バシバシ決断しているように見えて、精神はすり減らし続けてたと思うけど、柊と航大は間違いなく最高のペアでものすごく信頼してたしかっこよかったよ。バレーボール
人生の最初と最後の瞬間を一緒に過ごせて良かった。
【一木へ】
一周回って何を伝えれば良いのか分からなくなってます。高校で出会ってから、俺のバレー人生をずっと側で支え続けてきてくれた人です。なんか紹介文になっちゃったけど、一木がいなかったら最後にこうして笑って終わることができなかったと思ってます。お互い知り尽くしているからこそ距離感に難しさを感じたり、気まずくなったりもした時もあったけど、高校以降の嬉しいこと悔しいことがあった時にいつも隣にいたのは間違いなく一木で、この7年間、一番の心の支えでした。しんどくて折れそうになった時には必ず助けてくれて、俺が見えないところでも多分たくさん助けてくれていて、もう感謝しかないです。本当に、本当にありがとう。逆に俺から何か助けてあげられたことが無いような気もして、いつも救われてばっかりだったなって思ってるから、これからは俺も何かあった時には助けられるように強くなります。出会えて本当によかった。これからもよろしく!
中高大と3度経験した最上級生の代で、これといった結果を残すことは一切出来ませんでした。それでも大切な仲間にたくさん出会い、数えきれないほど支えられてきました。
仲間の存在なくして今の自分はありません。
以下の2つをこれからも大切にしていくという意味を込めて書き残したいと思います。
・「「自分と関わる全ての人を大切にする」
自分1人では多くの事を成し遂げることはできない。だからこそ、たくさん助けられて、自分自身も周囲の仲間をたくさん助けることができる人間になる。
・「「努力は必ず報われる」
結果は必ず生じる。勝ちか負けのどちらか。結果が伴えば、また次の高みを目指せば良いし、思うような結果に至らなくても、それまでに積み上げてきた努力は必ず自分の糧になっていく。だから嫌な事にも決して目を背けることなく、とことん向き合い続けて生きていく。
僕が10年間のバレーボール人生を通して学んだことは、競技を離れた新しい世界でも引き続き大切にしていこうと思います。
不安たっぷりの社会人生活ですが、自分らしく頑張ります。
2025年12月28日
山元「康生
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