男子

君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す

経済学部1年  林 賢治

日頃よりお世話になっております。
経済学部1年の林賢治と申します。

慶應バレー部の今年のスローガンは「PRIDE」で、規律を重んじています。慶應生として、人間として、伝統ある慶應バレー部の一部員としてのプライドなど様々ありますが、私はプライドというのは時効と同じ性質を持っていると考えます。

一見すると、時効は貸したお金を無効にするという例があるように不条理な法律です。しかしこの法律には、一定期債権者が債務者に対する請求を怠った場合適応される、という条件があります。この条件には、債権者であるということに安住し、請求という行動を起こさなかった者は、民法の保護を受けるに値しないという趣旨が含まれています。このように、近代社会の自由や権利は、現実に行使することで初めて守られるのです。

政治において、もし我々が投票に行かなかったり、デモを起こさなかったりしたとします。もしそのようなことがあれば、我々は投票という、国家や法律自体を変えることのできる権利を自ら放棄することになります。最近、有名であるというだけで当選してしまっているYoutuberやインフルエンサーに、はたして我々の生活や権利を守れるでしょうか?

我々が自分らの権利を行使するのは自由です。自らの権利を放棄することもできます。しかし、我々が自由であることを祝福し、行動を起こさなければ、我々はやがて自由ではいられなくなってしまいます。

民主主義の起源を見ても、同じことが言えるでしょう。フランス革命やアメリカの独立宣言では、民衆が自身の熾烈な環境に耐えることが出来なかったため、命をかけて革命を起こしました。現在でも、両国では政治に対し強い関心が持たれ、日々活発にデモが行われています。彼らは、自由と権利が多年にわたる不断の努力でしか保持できないと知っているのです。このように、主権者、つまり権利を持つ者は、その権利を行使することで主権者たるのです。

プライドもまた同じで、行動が伴っていなければいけません。例えば、練習に常に一生懸命になりもせず、部員としてふさわしくない振る舞いをし、規則を破るような人間には練習する権利もプライドもないはずです。つまり、プライドを持とうとする行動が伴って、プライドを持つことができるのです。

我らが敬愛する福沢先生も同様に、『日々のおしへ』の中で、「貴賤はする仕事の難しさで決まるものであって、大名や武士や公家といった身分ではない」と記しています。何が尊敬されるのかということは、身分の偉さではなく、やっていることがどれだけ難しく有意義かどうかで決まるということです。つまり、身分が高いから偉いのではなく、行動をしているから偉いのです。

一般的な日本の部活においては、民主主義というよりは儒教的敬老思想が強いです。年齢的に上である者が偉いという思想は、上述した内容と相入れません。年齢的に上であるという立場、身分が尊敬の対象になってはいけないからです。しかし、我々慶應バレー部は、もちろん上級生の言うことも聞きますが、同時に先輩に対して反対意見も言うことが出来ます。先輩に対して本心を打ち明けて自分の持っている本当の意見を出すことは、信頼関係がないとできません。例えば先輩に対して「レシーブの時もっとこうしたほうがいいんじゃないですか?」とアドバイスするのは、その先輩との信頼関係がないとできないことです。そして、こうした信頼は日々積み重ねた努力によって獲得できます。日々真面目に生きている人に意見をされて、聞かない人はそういないでしょう。つまり、規律を守ることは信頼関係を構築することにおいて重要ということです。

時効や自由と同様に、プライドと信頼関係を得るためには、「立ち止まらず、走り続けなければ」なりません。タイトルにもございます通り、論語には「君子は言に訥にして行いに敏ならんと欲す」という一節があります。これは、雄弁で巧妙に言葉を操る人物に比べて、思想や意志を素早く行動にして機敏に実践する人物の方がより信頼を置くことができるという意味です。私は、行動で示したいと思います。

乱文失礼致しました。

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