男子

人生に無駄なんてない

環境情報学部4年  芳賀 祐介

コンビニの店頭に並ぶおでんが恋しい季節となりました。見慣れた秋の日吉名物であるイチョウ並木の紅葉もすっかりと落葉し、一面は山吹色に染まりました。銀杏の臭いにしばしば言及されるイチョウの木も、初冬には日吉を観光名所にしてしまうのですから、無駄な事などないと考えさせられます。1年次より何気なくこの絶景を横目に体育館に通っていた私は幸運だったとさえ感じます。蝮谷の方から長い階段を上って通学するのではなく、綱島街道を通って日吉並木を潜る様にして通学する道を選んだ私の選択は正解だったのでしょう。

寒さが日ごとに増します今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

恐らくこの4年間、11月中旬になっても夏季略装のポロシャツを着用して寒さを耐えていた最後の部員という不名誉な田舎者の記録を持つ私でも、就寝する際は長袖長ズボン、暖房を付けるためのリモコンは肌身離さず生活しております。こちらの家は設備上、北海道の家より寒い、という話は皆様聞き飽きているかもしれませんが、最後の活動日誌でしたので懲りずにお話しさせていただきました。

かつて何も知らないまま関東に1人参った道産子は、早くも引退し最後の活動日誌を書く季節となりました。ただ、4年間で何を知ったのかと問われると、日吉駅には通勤特急は停まるのに特急は停まらないという事実くらいの私であります。

敬愛する諸先輩方のおっしゃる通り4年間は早いものです。このような最後の日誌の際、自分の半生・伝えたい事など大半の人間は何種類かに分類されると思います。その枠組みに囚われず、何か違う事を書こうとも考えたのですが、私も自分の半生とそこから感じた人生観、伝えたい事というなんとも陳腐な、4年間2メートル学ランを続けた私らしい内容となりました。

冗長かもしれませんが、面白おかしく時に真剣に、書かせていただきます。

私の半生ですが、1年生の頃の
「自己紹介」(https://keiovb.com/blog/1511/
でも述べたものと重なってしまいますが、当時の活動日誌を多少訂正しながらご紹介させていただきます。

私は小学校2年生の頃に友人からの誘いでバスケを始めました。当時から身長が大きかった私は札幌地区の選抜チームに選出されました。中学校に進学する際、バスケを続けようとしたものの、バスケ部がなかったがためにバレーボール部に入部、バレーボールを始めるきっかけとなりました。あたかも自分で期待を胸に膨らませ、バレーボールというスポーツへの門を叩いたかのように記載しておりますが、これは間違いです。当初は祖母の家に卓球台があり、幼少の頃から親しんでいた事もあって卓球部が最有力候補でありました。部活動見学期間にて、卓球部を我先にと見学に行こうとしていたのも束の間、当時は2メートル足らずの可愛らしかった私を胃腸炎が襲いました。5日間あったはずの見学期間は残り1日となり、卓球部に行きたかった私をバスケ時代の友達が強引にバレーボール部に連行しました。ラスト1日の大切な見学日は多少興味ある程度だったバレーボール部に奪われ、その流れのままバレーボール部に入部しました。胃腸炎に罹っていなかったら、強引に連行されなければ、今頃2メートル卓球部が誕生していたかと思うと世の中何が起きるかわかりません。卓球界の損失は大きいものがあるでしょう。

また、中学校入学後も身長が大きく伸び、3年次にはJOC北海道選抜に招待されていましたが、学力での高校受験というのもあり、それを辞退しました。このように記載されていますが、これも叙述トリックです。まるで仲間と汗水垂らして休みなくバレーボールに打ち込み、その結果として北海道選抜に選出されたかの様な熱量です。当時本気でプレーしていたのは事実ですが、私は主将として全部員の同意を得た上で自分の学習塾の曜日をオフにするという、今では考えられないような練習日程を組んでいました。関東一部ニ部で活躍する選手は大抵、小中高、厳しい環境で揉まれてその下積みがあった上で大学で活躍する訳ですから、小学校は5年間バスケに本気で打ち込み、中学校は体育館と同等かそれ以上に学習塾に居た私の異質さが理解できるかと思います。そんな文武両道(仮)の甲斐あって、学年1位も複数回達成し内申点は北海道基準でのAランク、北海道内の公立高校は全て射程圏内でした。北海道の公立高校ではNo.1.2を争う高校として札幌南高校、札幌北高校があります。私服、髪染め、ピアスまで許可されている自由な校風の南と、学ラン着用の制服で規律を重んじる北。家族と相談して当時から怠惰な私は南だと自由すぎる、そして北海道大学に進学したい、という理由で札幌北高校を選択しました。

この北海道大学への興味・関心というのは尊敬する父の母校であるからです。物心付く前から北大の銀杏並木を家族で楽しみ、なんとなく身近な存在であった事。そして、私を含めて家族全員を、何不自由なく幸せに生活させてくれた父の母校が北海道大学であり、そこに行けば漠然と自分や家族を何不自由なく生活させる事ができる。そんな北海道大学へ全国最多の合格者を毎年輩出していたのが札幌北高校でした。かくして、志望校に札幌北高校を選択した私は朝は学校へ登校し、下校と同時に学習塾へ、そのまま21時過ぎまで勉強、友達と雪合戦をしながら帰宅するという毎日を過ごしました。毎晩説教をしながら、実家の暖房で防寒具に付いた雪を溶かしてくれた母には感謝してもしきれません。そんな努力が実り、札幌北高校に合格、この結果が私の人生を大きく変えたと考えております。

合格後、私はどの部活動を行うのかそもそも入部するのか、悩んでおりました。勉強との両立が可能であるか不安もありましたが、最終的に迷ったのはバレーボール部とまさかの茶道部。元々日本文化が好きだったのと、高校に茶室があり、興味がありました。そんな血迷った私を、元々目を付けていたバレーボール部の諸先輩方が練習に連行し、その流れのままに入部しました。なんだかデジャヴな展開ですが、その強引さが無ければ2メートル茶道家が誕生していたかと思うと、茶道界の損失は大きい様に感じます。

さて、冗談はさておき、なぜ札幌北高校への進学が私の人生を変えたのか、についてです。それはバレーボール部に入部し、当時の監督である小山先生に出逢えたからであります。高校3年次直前の異動により、高校2年次までの2年間という短い間でしたが、小山先生に出逢えていなければ、私は大学まで本気でバレーボールを続けてはいませんでした。時に厳しく、大抵は優しく、伸び伸びとバレーボールを教えていただきました。公立の、しかも進学校の高校では、バレーボール未経験者の顧問も多い中、北海道バレーボール協会にも携わり、指導経験も豊富な小山先生との出逢いはまさに運命的であったとさえ感じます。

高校1.2年次で招集された高身長者合宿にも小山先生に強くお勧めしていただかなければ、中学時代同様に迷わず辞退していました。高校2年次のその合宿から北海道国体選抜チームに選出され、その後のドリームマッチ、U18日本代表、慶應等の関東強豪大学からのお誘いへと繋がる訳ですから、まさに私の人生の分岐点でありました。加えて、高校2年次の北海道国体選出の経緯も非常に奇妙なものでした。元々、私とは別の北海道内の強豪校からの選出でしたが、その高校の不祥事によって幸か不幸か、私が補欠として寸前で選出されました。札幌北高校は学問がメインの高校でしたので、3年次の春高予選等の大会は大学の受験のため全て引退するのが通例です。そのため、私達最後の大会は高校3年次のインターハイ予選となり、そのタイミングで代が終わります。(無論、全国のインターハイに出場できるはずもありませんので、高体連引退という形です)

さらに、私達の世代はコロナ禍によって高校3年次の大会が全て中止に、私は自分が何の大会で引退したか覚えていない、というくらい呆気なく高校時代のバレーボールは幕を閉じました。そういった経緯もあり、仮に2年次で国体に選出されていなければ、私は数ヶ月後には大学受験の為に引退し、日の目を浴びる事も、こちらで長々と冗長な自分語り活動日誌を執筆する機会も無かった、という訳です。

輝かしい春高やインターハイなどチームとして全国大会の経験が無い私が初めて北海道を飛び出したのが、上記の経緯で高校2年次に選出された茨城国体です。初戦は神奈川県であり、お気付きの方もいらっしゃるかもしれませんが、ここで初めて「渡邊大昭という男」(https://keiovb.com/blog/8175/)に出逢います。2023年5月に彼との出逢いや不思議なご縁について書いた活動日誌が上記のリンクより読めますので、ぜひ未読の方はご覧になってください。

詳細は上記の活動日誌にありますので省略いたしますが、私は最初で最後の全国大会を、渡邊大昭(商4)擁する強豪神奈川相手に、北海道勢8年ぶりの勝利を掴み取りました。私が恵まれていたのは次も同様で、2回戦の相手は長崎県でした。これは私の推測の域を超えませんが、当時の長崎県代表の監督がU18日本代表のコーチを兼任されていて、神奈川戦、長崎戦での活躍が評価され、U18日本代表への道が拓かれたのだと勝手ながら妄想しております。

このようなドラマがあり、誰が想像したのか、北海道は札幌の公立進学校から北海道を代表してドリームマッチ、U18日本代表が生まれるという、神様が運命を決めるノートにコーヒーを溢したかの様な、そんな運命的な結末になってしまったのです。U18日本代表合宿では、今まで画面でしか見ることがなかった選手と対人パスをし、寝食を共にしました。今でも第一線で活躍する高橋慶帆選手(法政大学3年)や前田凌吾選手(早稲田大学3年)など、後に春高バレーで大活躍し、大学バレーを牽引する選手達と仲良くなれた事は当時の私にとって身に余る光栄でした。バレーボールの心技体、どこを取っても歯が立ちませんでしたが、思えば当時通用しなかった自分が悔しくて見返したかったあの気持ちが私の原点なのかもしれません。

前述した様に、コロナ禍で呆気なく私の高校バレーが幕を閉じた中で、またしても私の人生を大きく変えたのが大学選択です。北海道国体、ドリームマッチ、U18日本代表と肩書だけ見れば一流のハリボテ道産子に多くの関東一部の大学が興味を示し、お声がけを頂きました。どの大学も素晴らしい大学でしたが、その中で最終的に残った選択が早稲田大学と慶應義塾大学でした。お話を聞けば聞くほど、どちらの大学も魅力的に感じ、悩みはさらに深まる一方でした。最終的な決め手は自分の直感でしたが、大学バレーの頂点をひた走る早稲田大学に私なんかが通用しないという自己不信と、日本最高峰の文武両道を実現しようとする慶應義塾大学の精神が私のそれまでの生き方に合致していた、という理由で慶應義塾大学を選択させていただきました。

ここで、僭越ながら早稲田大学バレーボール部への感謝を述べさせていただきます。取り留めのない文章になってしまう事をお許しください。なぜ私が早稲田大学バレーボール部に皆様に感謝したいのか。それは早稲田の存在が意識せざるを得ない、毎年本気で戦う大学バレーの頂点であるからです。私達は毎年一部昇格、もしくは残留を1つの目標とし、死に物狂いで戦ってまいりました。これまでも、これからもその現状は変わる事はないでしょう。一部にいれば戦う事ができる早稲田大学とも、二部に降格してしまうと戦う事すらできなくなってしまいます。毎年、早慶戦や全早慶明といった歴史や伝統ある定期戦にて本気で戦い、自分達の立ち位置や一部に通用する部分を見定める事ができました。

早慶戦の結果だけ見ればこの4年間の戦績は0勝4敗。2021年0-3、2022年2-3、2023年1-3、2024年0-3と惜敗もありましたが、全敗です。私は2021年の3セット目以外の14セットに出場させていただきました。高校バレーを彩り、大学トップの実力を持つ選手達と鎬を削ったあの日あの場所。一瞬たりとも忘れません。私個人としても、チームとしての慶應も早慶戦によって大きく成長させていただきました。早稲田大学バレーボール部とその関係者の皆様、そして早慶戦を運営していただいた方々にお礼申し上げます。

また、早稲田大学バレーボール部監督の松井様には早稲田-慶應の枠組みを超えて本当にお世話になりました。高校3年次に大学進学で悩んでいる時から、各定期戦、各試合でお会いする時、U22日本代表活動の時、それぞれで懇意にさせていただき、本当に感謝しております。この場をお借りして、感謝を申し上げます。

ここまで早稲田の事をベタ褒めすると、幼稚舎から慶應である同期の田鹿(法4)に怒られてしまいますのでこの辺で。彼は常々、早稲田はライバルであると同時に、誇りや威信を賭けて戦う稀有な存在であると言っておりました。大学に外部から慶應の門を叩き、入学した私にもそれが些か理解できた気がします。

さて、ここまで小中高、そして大学進学と変遷について長々とご説明させていただきました。そしてお待たせしました。やっとのことで大学編です。とは言いましても、塾バレー部での毎日を文字に起こすと書き尽くせません。大学での各学年での思い出や印象的だった事を書いてしまうとさらに取り留めがなくなってしまいます。

・特に印象的な入部から最初の1年間
・今年1年間の結果に対する謝罪
・再認識したこと
・特に感謝を伝えたい相手
・最後に

こちらの項目についてお話しさせていただきます。

<特に印象的な入部から最初の1年間>
前述した経緯で、私は非常に運命的で奇妙な出逢い、選択の末、慶應義塾体育会バレーボール部の門を叩きました。当時の私はリードブロックのリの字も、ゾーンやローテーションの概念すら知りませんでした。同期の選手である渡邊、内田(環4)は2人ともJOCの県選抜、高校バレーの頂点である春高バレーに出場しており、当初は実力差に絶望した事を今でも覚えております。スパイク、ブロックから基礎的なパス、バレーボール観、体育会生としての心得など、1から200まで手取り足取り教えていただきました。

恵まれていたのは、入部した時点で総合練習に入る同ポジションのミドルブロッカーの先輩方が3人であり、かろうじて練習に参加できた事です。当時の勝呂先輩(2022年卒)、降先輩(2023年卒)、下田先輩(2023年卒)には本当に感謝しております。思えば、何もできずにもがいていた1年次、本当に苦しくて練習に行きたくない日が何度もあったあの1年間が最も充実し、恵まれていたと強く感じます。

私達の代は3つ上の小出先輩(2022年卒)の代を深く、深く尊敬しております。メリハリの付いた練習とふざけたり、楽をするのが楽しいのではなく、純粋なバレーボールが大好きで楽しかったあの1年間。何もできずに苦しかった感情も事実ですが、最も成長しバレーボールを堪能した1年間でもありました。素晴らしい環境を本当にありがとうございました。勝浦からの帰りのバスで入眠用に福山雅治を歌い続けた時間、部室に和製エド・シーランが来日してShape of Youに合わせてカンペありラップを聴いたこと、忘れません。

多くの想い出がある大学1年次ですが、私はあるターニングポイントがあった様に感じております。それは2021年秋リーグ対亜細亜大学戦です。当時はコロナ禍の影響もあり、春リーグは中止に、秋リーグの中盤以降であったと記憶しております。何戦か終わり、私はベンチスタートの起用が多かった中、その対亜細亜大学戦が初めてのスタメン起用でした。事前に通知があった訳でもなく、いつも通りメンバー確認の際、ベンチに戻る所で呼び止められてコートに出ました。なぜ起用されたかは今でもわかりませんが、結果としてある程度の活躍をする事ができ、自分が他大学に通じるという確かな成長、実感を得た試合でした。10月の試合でしたので、その実感を得る為に実に半年以上要した計算になります。

試合後、ご自身曰く「史上最高の卓越非凡な慶應の頭脳」である濱本先輩(2022年卒)に「今日は多分お前のおかげで勝ったわ」と真意は定かではありませんが、言っていただけたあの瞬間は特に苦しかった半年が報われた気がしました。あの亜細亜の緑の体育館の、あの時、あの場所、あの空気は忘れられません。

<今年1年間の結果に対する謝罪>
ここで今年1年間の結果につきまして、謝罪させていただきたいと思います。それは自分達の代で関東一部から降格し、昇格もできずに関東二部所属としてバトンを引き渡してしまうことです。

2021年チーム小出、2022年チーム髙倉、2023年チーム島田、いずれのチームも困難な時期はありましたが、後輩達へ関東1部のバトンを用意して引退されました。私の副将としての役割は、チームをまとめる事もそうですが、それ以上に客観的な結果にこだわって、特に勝敗について司ることであったと就任当初から感じていました。渡邊主将の様にプレーや背中で引っ張り、圧倒的なリーダーシップもなければ、田鹿副将の様に客観的なデータやそれに基づいた最適な戦術、練習方法の提案でチームを外付けで強化できるセンスも持ち合わせていませんでした。

自分の役割は、いかに練習にメリハリを付けて良い内容とし、試合で精神的な支柱となりながら圧倒的なスタッツで貢献する事である、と勝手ながら理解しました。過去の永田先輩(2022年卒)、降先輩、大槻先輩(2024年卒)の様な偉大な副将の方々には到底追いつけるはずもなく、自分が本気でこだわったはずの結果は満足なものは得る事ができませんでした。応援していただいた全ての皆様、本当に申し訳ございませんでした。

この悔しさは、塾バレー部の今を創る現役部員が必ず晴らしてくれると信じております。この長々とした文章をなんとか読み進め、ここまで来た後輩達、もしくはまだお会いしていないこれからの慶應を創る未来のリーダーの卵達。未来は後輩に託したつもりです。想いを引き継いでくれたのなら、私がいなくなるのは形式上のみとなります。そしてそんな想いは私から始まった訳ではありません。脈々と、連綿と続く塾バレー部の歴史や諸先輩方の想いを私もまた引き継いでいただけのお話です。

4年間の戦績を数えると、54勝58敗。体感ではこの3倍は負けて、勝ちは半分程です。なぜそんなに差が出るのか、それは大抵の勝利が関東二部で、関東一部相手に勝利した試合など数える程しかないからだと感じます。関東二部にもリスペクトできる相手がいて、素晴らしい環境がある事は間違いありませんが、私の中では関東一部で1勝する事は関東二部で全勝優勝する事と同等の価値があり、その喜びもひとしおでした。体感では圧倒的に、実際に数えても、敗北を味わう事が多い体育会人生でした。どんなに大変で苦しい状況でも関東一部を目指す事を諦めないで欲しいと強く感じております。

<再認識したこと>
さて、少し話は変わってしまいますが、私は全日本インカレ直前に親しい親戚を亡くし、チームを数日間離れる事となってしまいました。北海道のある地方で行われた葬儀には久しい親戚の方々が集まり、私の身長に驚いていました。故人は両親を除けば私を最も応援してくれていた人でした。遠い北海道の田舎から何度も試合を観戦しに関東までいらして、直接の観戦が難しい場合にはインスタライブや配信など画面に釘付けになって観戦してくれていたそうです。なぜこの様なお話をしているかというと、この時に一生懸命、全身全霊で何かに打ち込む事の価値、塾バレー部が本気で勝利を目指す事の意義を再認識したからです。

葬儀でお話しした参列者の中には故人のお友達や職場の同僚の方などがいらっしゃいました。みな私の活躍をご存知の様で、口を揃えて応援している旨を伝えていただきました。お話を聞いてみると、故人は私の事をお友達や職場の同僚の方にお話ししていたらしく、2メートル喪服の人間が誰かを理解するのに時間はかからなかった様でした。ご友人や同僚の方の顔も名前も、ましてや応援していただいている事すら知らなかった私でしたが、強く再認識した事がありました。

それが前述した、全身全霊で何かに打ち込む事の価値、塾バレー部が本気で勝利を目指す事の意義です。刹那でも試合をご覧になった方が、人間の本気、全身全霊の姿に、学問のイメージが強い慶應が、塾バレー部が勝利する姿に、強く胸を打たれ応援する様になったとのことでした。結果として、4年間で1度も日本一は達成できませんでしたが、もし、私達の全身全霊の姿、慶應が勝利することによって、何かを感じ取る方が1人でも多くいらっしゃれば、本当に嬉しく感じます。

<特に感謝を伝えたい相手>
私はこれまで多くの方々の支え、応援があってここまで競技を続ける事ができました。特に4年間の苦楽を共にした同期など、全ての方々に感謝申し上げたい所ですが、既に文字数が並大抵ではないため、この場では星谷監督、渡邊大昭主将、両親に限ってお伝えさせていただきます。

星谷監督にはこの4年間で最もお世話になったと言っても過言ではないです。同じ慶應外部出身の大型ミドルブロッカー、入部当初の私はリードブロックのリの字も知りませんでしたが、星谷さんは伸ばし棒あたりまでご存知でしたか?高校、大学と学問でも非常に優秀な成績を収めながらプロとなった星谷さんは私の理想でした。誤解を恐れずに申し上げると、私にとって星谷さんは監督であると同時に、MBとしての憧れであり、体育会の先輩であり、ごく稀に街にいるとても大きな人間であり、歳の離れた友人の様な存在でした。尊敬し、憧れていると同時に、話しやすく親近感のある監督でした。私達の代は星谷さんが監督に就任されてから初めての卒業生、いわゆる”星谷チルドレン”です。4年間、何度も理解できない事をおっしゃり、今でも理解できていない事もありますが、それ以上に尊敬し、感謝しております。第1期星谷チルドレンとなる事ができて幸せでした。

同期である渡邊大昭主将には、過去の活動日誌にて彼との関係や人間性をお伝えしたので省略させていただきます。高校生の頃、茨城国体で私の初めての全国大会の対戦相手としてネット越しに戦い、ドリームマッチではMAXチームとして初めて同じコートで戦い、大学進学後は4年間同じ慶應を背負って戦いました。誰もを魅了する豪快なプレーはもちろんですが、誰よりも練習の量にも質にも向き合い、それに裏付けされた圧倒的なリーダーシップでこのチームを導いてくれました。彼の存在なくして、私は日本代表として日の丸を背負う事はもちろん、慶應のレギュラーになる事すら叶わなかったかもしれません。共に大学1年次よりベンチに入り、いつからか共にコートで関東一部の強豪相手に泥だらけに、血だらけになりながら戦い抜きました。結果として私達の引退試合となった、最後の全日本インカレ対早稲田大学戦にて彼は負傷退場してしまい、最後までコートに立つ事は叶いませんでした。私は何よりもそれが1番悔しいですが、彼の無念は私ですら計り知れません。終わり方こそ、悔しさの残るものとなりましたが、彼に対する揺るぎない信頼、多大なる感謝は尽きる事がありません。2人とも来年から社会人になって、今度は場所を変えて暴れよう。4年間、本当にお世話になりました、ありがとう。

最後は両親です。
私は周りに身長と天然パーマは父譲り、ユーモアや世界観は母譲りである、としばしば伝えております。
父は私に正しい選択を常に示し続けてくれると同時に、最終的な決定は私に委ねてくれました。既に述べた様に、私が札幌北高校に進学するきっかけとなった父の影響です。それほどまでに幸せで恵まれた生活をさせてくれてありがとう。
母は私を常に精神的に支えてくれました。頼めば、なんなら頼んでもいないのに冷凍した料理を「母の味」として札幌から関東まで送ってくれて、離れていても実家の味を思い出す事ができました。陸続きではない北海道からも何度も試合を観戦しに来てくれて、心の支えとなってくれました。母の話ですので話半分で聞いておりますが、私が2002-2003年の学年に生まれる事となったのは、なんとか母が私を3月31日に産んだからだとか。それによって数多く救われてきた事も事実ですので、なんだか失礼で信じていないなんて口が裂けても言えません。お節介で騒がしい母ですが、楽しくて充実した生活をさせてくれてありがとう。

<最後に>
さて、ここまで長々と、本当に長々とこれまでの自分の半生、伝えたい事を書かせていただきました。私がこの半生で学んだ事、それがタイトルである”人生に無駄なんてない”という考えです。この言葉は、前述した楽観的な母がこの言葉を家訓であるかの様に何度も言っていたので真偽は定かですが、家訓であるのかもしれません。

”人生の全てに意味がある”と、”人生に無駄なんてない”。なんだか同じ意味の様に思えますが、私は後者の考え方の方が好みであります。人生の全てに意味があるのなら、苦しくて大変な今この瞬間も、逃げ出したい現実も意味があるかの様に聞こえてしまいます。結果として後から意味を見出せても、今この瞬間に必ず意味があるから逃げずに向き合って頑張ろうと、力んで乗り切れるほど私は強い人間ではありません。苦しいかもしれないし、逃げたくなるし、全てが無駄に思えるかもしれない。けれど、後から振り返ってみればなんだかんだで意味があった、と思う方が肩の力が抜けてなんだか気楽に素敵な生き方ができそうです。

部活動見学期間で胃腸炎に罹らなければ、友達に強引に見学に連行されなければ、そもそもバスケ部があれば、バレーボールを始めてすらなかったのかもしれない。中学校の頃のオフを自分の学習塾の曜日にして勉強していなければ、JOC北海道選抜に行けば、札幌北高校には合格していなかったかもしれない。補欠で北海道国体に選ばれていなければ、U18日本代表はおろか、慶應など他大学の選択肢すら生まれなかったかもしれない。

バスケか卓球か茶道かバレーボールか、スポーツか学問か、慶應か早稲田かその他の大学か、本当に多くの選択で迷い、決断してきました。もしかすると、違った選択の方が幸せだったのかもしれません。規定路線通りに北海道大学に進学して学問で優秀な成績を収めるかもしれない。JOC北海道選抜に行き、早稲田大学などその他の素晴らしい大学に進学して更に選手として成長し、日本を代表する選手になっていたかもしれない。ただ間違いないのは、今までの決断を後悔していない、選んで良かったと胸を張って言える事、自分は幸運であったという直感です。それくらい幸せなこれまでの半生でした。

選択した決断を正解にする努力を重ねたと同時に、正解だと断言できるくらい本当に周りの方々に恵まれていました。各選択で助言をくれて導いてくれた両親、友達や応援してくれる方々、私に関わった全ての人に感謝申し上げます。

私は大学でのバレーボールを区切りに、第一線でバレーボールを競技として続ける事を辞める決断をしました。U18、U20、U22の各世代で日本代表に選出され、プロを含む多くのチームからのお声がけを頂きましたが、丁重にお断りさせていただきました。本当に多くの方のお話を聞いて、迷い、悩んだ末での決断です。いまだに本当に合っていたのかと後悔しそうになる気持ちも心のどこかにあります。

今この瞬間は悩んでいる私ですが、後からこの決断をして良かったと、これまで通り選択した決断を正解にする努力を重ねて、”人生に無駄なんてない”ことを証明し続けます。就職先の企業にて、週1回程度でのんびりと、プレーする時は本気で、バレーボールには携わり続けたいと考えております。1人のOBとして慶應を応援している時など観客として、どこかでのんびりとプレーしている時の選手として、会場等で私を見かけた時は声をかけていただけると幸いです。

ここまで僭越ながら自分の半生や価値観を述べて、さも全てを悟ったかの様な言い回しです。

私は先程述べた様に母のおかげで2003年3月31日生まれ、同世代では1番年下の実質21歳です。人生100年時代という言葉に倣うと、私の人生はまだ5分の1、バレーボールで例えるなら序盤5点がやっと終了した段階です。バレーボールに精通している皆様ならご存知の様に、序盤の5-0、0-5など幾らでも挽回できる点差です。これから学生から社会人になり、バレーボールを離れ、今まで以上に慣れない事や大変な事があるかもしれません。将来に対して不安も無論あります。しかしそれ以上に期待や希望を抱いている自分がいます。

自分は幸運であり、”人生に無駄なんてない”のですから。

4年間、本当にお世話になりました。

慶應義塾大学体育会バレーボール部
2024年シーズン副将
#8芳賀祐介

“人生に無駄なんてない” への1件のコメント

  1. 大昭叔父 より:

    芳賀さん、『絶好調』でした!歴史的人物の半生を知ってしまったような充実感を覚えたのは私だけでしょうか?大学での戦績が54勝58敗との事。思い出してください。どなたかが言いました。「人生は敗者復活戦です」バレー同様、人生も多いに楽しんでください😊

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