こんにちは。
慶應義塾体育会バレーボール部4年、内田克弥です。
先日納会が行われ、私たちの代から次の代へと引き継ぎ、これをもって4年生は引退しました。
そして早いもので、私もついに最後の活動日誌を書く運びになりました。
最後ということで、誠に勝手ながら私の半生の全てを捧げてきた12年間のバレーボール人生を振り返らせていただきます。壮大な私の自分語りでとても長くなってしまうのですが、最後までどうかお付き合いください。
私がバレーボールと出会ったのは5、6歳ごろに父が所属している地域のバレーボールチームについていき、少しだけボールを触ったときでした。そして小学2年生の時まで地域の近くにバレーボールクラブはなく、当時中学生だった姉が所属しているバレーボール部の練習についていかせてもらい、練習に参加させてもらっていました。そして、父たちが小学生のバレーボールクラブを発足させてくれてからは、そこに所属して本格的にバレーボールを始めました。
当たり前ですが私のクラブは発足したてなので、小学校4年生くらいまで2年間位勝った覚えはありませんでした。勝てないのが当たり前な中、初めて勝利したときは飛び跳ねるほど嬉しかったこと、そして県3位を決めた試合でチーム全員で喜びあったこと、最後の試合で負けて大泣きしたこと、今でも鮮明に覚えています。幼い頃から負けず嫌いな私は、大事な試合に負けそうになると試合中に泣いてしまうような、純粋で泣き虫な負けず嫌いのバレー小僧でした。総じて一生懸命に楽しくバレーボールに向き合った小学校時代が私の原点でした。この小学校のバレーボールクラブでバレーボールの根幹、面白さ、悔しさ、厳しさ、苦しさ、そして楽しさを学びました。
そして中学校時代の思い出はなんといってもJOC。中学まで県内の強豪にいた訳ではない私が運よく県選抜に選ばれました。しかし周りの選手は県内の強豪出身ばかりで、私はバレーボールが一番下手でした。周りの選手と比較しても劣るプレー、強みだと思っていたものが何も通じず、怒られ続ける日々、練習に向かう車の中で行きたくない、練習場所に着かないでほしいと何度も思いました。ありきたりな話ですが当事者の中学時代の私には辛いもので、大会でも両親や知り合いの方が遠方から来てくれているのに試合に出れない、出ても活躍できない。惨めで悔しい思いをしながら中学校を終えました。ですがこの経験があったからこそ、今でも活きている辛い場面でも頑張れる反骨精神とハングリー精神を得る事ができました。
そして中学での悔しい経験から生まれた、「高校では全員を見返して全国大会に出る!」という反動と将来の自分を思い描いた結果、高校は国立松江工業高等専門学校を選びました。それでも高校2年生までは結果の出ない日々、JOCメンバー5人を有しながら県大会の決勝にすら届きませんでした。そんな中、高校3年生で初めて県内の新人戦で勝った時の喜びはとても大きかったと覚えています。
そして私の人生が大きく変わった大会である中国新人バレーボール大会。この大会には思い出がたくさんです。当時は丁度高専のテスト期間と被っており、私たちは1〜2週間練習しておらず、開会式の入場は5人で入場し、試合が終わったら合宿所で高専のテストをし、ベンチメンバーも含めて計8人でこの大会を優勝しました。書いていて笑ってしまうくらいとんでもない伝説です。この大会のことは忘れないでしょう。
そしてこの大会の後、先生から大学進学の打診があり、高専を3年で中退し大学に進学することを決意しました。そのなかでも慶應を選んだ理由は本当に浅はかなもので、先生から「慶應はどうだ」と聞かれたときのそのブランドの格好良さと、YouTubeに上がっていた早慶戦を見て慶應がいいと思ったことです。無鉄砲で短慮な決断でしたが、それでもそれが結果的に大正解の道だったので、当時の僕には感謝です。
高専時代は本当に人に助けられた3年間でした。実家が遠い私を何度も家に泊めてくれた村上連(現中央大学バレーボール部)、西尾紀一郎(駒澤大学バレーボール部)、そして主将の松浦雅樹。高専の思い出には大体この3人がいます。ご飯やカラオケそして何より、練習後に高専からの帰り道、並んで自転車を漕いだあの日々は忘れません。私は高専バレー部でよかったと思います。
そして1番の恩師である村上亨先生。中学時代から私を見つけていただき、井の中の蛙だった私に広い世界を見せてくださいました。大学バレーでも私が手詰まった時に助けてくれたのは村上先生から教わった技術でした。寡黙ながらもバレーボールを愛する姿勢を見せ、優しく時に厳しく私に向き合い指導してくださったこと、感謝しかないです、本当にありがとうございました。
この高専の日々のおかげで、今の自分の基礎ができたと思います。そして宗雲前監督、村上先生、その他にもたくさんの方々のご尽力のおかげで何とか慶應に合格する事ができました。
そして2021年3月10日、慶應義塾体育会バレーボール部に入部し、初めて練習に参加しました。大学のレベルの高さに驚かされ、高校では決まっていたスパイクが決まらなくなり、先輩から放たれるスパイクの球威も高校までと桁外れでした。初めての練習には大きな不安と恐怖と反対に幾ばくかのワクワクがあったのを覚えています。
そんな私だったのですが、最初に待ち受けていたのは両足の捻挫でした。約1ヶ月ほど練習ができなくなり、練習に復帰しても怪我明けで自分のプレーも上手くいかない。そんななかレベルの高い練習についていけるはずもなく、今でも同期に暗黒期といじられるほど気持ちも落ちてしまいました。そんな時の私を助けてくださったのは当時4年生の松川将大先輩(22卒)でした。私の1人目の師匠と言うべき人です。将大さんは本当に凄い人で、4年生の前半まで中等部コーチを担当していたのですが、後半から選手に転向しました。中等部コーチで練習も途中までしか参加しなかった3年半というブランクを抱えながら、残り半年を選手として活動する覚悟は1年生の私から見ても相当なものであったと思います。将大さんが残り半年のために全てを燃やす姿が本当に超格好良くて、ああなりたいと強く思っていました。当時気持ちが落ちた時に練習に誘ってくれた将大さんには感謝してもしきれません。この時だけでなく、私が辛い時にご飯に連れて行ってくださり、話を聞いてくださり、本当にありがとうございました。将大さんには何度も救っていただきました。将大さんのおかげで、人としても一バレーボールプレーヤーとしても、物凄く成長することができました。4年生になった今も松川将大イズムは私の中心にあると思います。
次に大学時代の大きな出来事は大学2年時のリベロ転向。これは次の大きな出来事の前触れにもなります。小学校から大学1年生まで、レフトやアウトサイドヒッターの経験しかなく、攻撃中心でレシーブは苦手な方でした。JOCではレシーブが下手でレシーブ練習すらさせてもらえなかったり、高専でも後衛に下がるとサーブレシーブから外れたりしていました。そんな私がリベロに転向し、しかもスタメンでプレーすることはまさに大学での努力が報われた瞬間であり、リベロ転向してから1週間で出場した早慶戦でも、自分で言うのもなんですが活躍する事ができ、そしてそのまま秋リーグで関東一部復帰も達成する事ができました。苦手だったレシーブを頑張って自主練し続け、その努力が結果として結ばれたこの半年はバレーボール人生の中でも随一の喜ばしい期間でした。
そしてここから、私の人生で最も暗くて重く、そして最も濃かった期間が始まります。関東一部復帰を達成し、リベロとして貢献できたことはとても大きな喜びであると同時に、私はずっと大きなプレッシャーと闘っていたと思います。4年生のために、先輩のためにコート上で1番の後輩である私がミスをするわけにはいかないと自分を追い込み続け、そんなプレッシャーに打ち勝つためにオフの日にもずっと自主練を行い、日々の全体練習後にも2、3時間自主練をしていました。ボールを触っていないと不安、練習をしていないと不安でした。ミスをするわけにはいかない、私は努力をしなければいけない、リベロになったことで努力をすれば報われると実感したからこそ、ミスをしない「完璧」を追い求め、休まずに私は努力を続けました。でもどれだけ練習しても、ミスは出てしまうものでそのミスに固執してしまう日々。この時の私の最大の敵は私自身だったと思います。自分のミスが何よりも許せず、そしてそんな自分自身を愛する事ができなくなりました。スタメンで出ている以上、ミスしたら私のいる価値はないと思っていました。そんな状態でプレーが上手くいくはずもなく、私のパフォーマンスはどんどん落ちている様に感じました。そしてパフォーマンスが落ちる自覚をするたびにまた自分を追い込むような悪循環へ陥ります。この様な日々が続き、私は自分自身を追い込むバレーボールをすること自体がいつしか怖くなりました。今までの自分のアイデンティティであるバレーボールへの情熱をその恐怖が凌駕した時、私は部活に行くことを拒みました。私の心は完全に壊れていました。親からすぐに病院に行けと言われ、病院に行きその日中にうつ病と診断され、とりあえず2ヶ月は部活に行くなと言われました。
実家に帰りながらも部活動から逃げてしまった罪悪感と、スタメンになり関東一部復帰に貢献できた、誇りに思っていた日々とのギャップがとても苦しく、自己嫌悪に陥る日々で、この時が人生最大のどん底であったと思います。頑張ってバレーボールを追いかけていた日々よりも、何も頑張れない、頑張る場から逃げてきた布団の中の方が何百倍も辛かったです。この出来事での最大の失敗は限界まで誰にも相談しなかったことです。私の性格上、本音を言うのが苦手で、最後まで自分の弱みをみせる事ができませんでした。
ここでも様々な人に助けられました。何よりも心配してくれた家族、そして多くの部員や先輩の方から声をかけていただき、私はなんとか日常生活を送れるくらいまで回復しました。回復はしたのですが、私はもう正直あの経験をした慶應バレー部に戻ることはないと思っていました。
そんな私がなぜ慶應バレー部に戻る決断をしたのか、それは私の2人目の師匠であり、相棒であり、バレーボール人生最大の恩人である島田航希先輩(24卒)のおかげでした。航希さんは私が部を離れた後も連絡をくれ、話を聞いてくださっていました。
そんな航希さんとは前年までインドアバレーボールと共に、ビーチバレーボールも一緒にプレーしていました。前年までは現在トヨタのビーチバレーボールチームで活躍されている安達先輩(23卒)とペアを組んでおり、日本一にも輝いていました。安達先輩が卒業に伴い、来年はペアを組もうと約束していました。ですが部を離れた私と交わした約束は無効だと思っていたのですが、「ビーチはお前と出る」と「克弥とビーチ出ないなら今年は出場しない」と言ってくださり、日本一を経験しているほどの人がそんな思いで私を必要としてくれるなら一緒に出たい、と思いました。
ブランクもあり、最初はなかなか上手くいかないこともあったけれど航希さんとしたビーチバレーボールはとても楽しく、久しぶりにバレーボールの楽しいと感じました。そして関東ビーチ大会で最終的には負けてしまったけど全日本ビーチへの出場を決めた時、本気で勝負する世界の楽しさを思い出し、即日で明日部活に行こうと決めた覚えがあります。
復帰の日は全員を驚かせてやる気持ちで誰にも何も言わずに行った覚えがあります。みんなの驚きながらも温かく迎えてくれた笑顔が面白く、そして何よりも嬉しかったです。
航希さんとのビーチバレーはお互い試合中全然喋らず、プロのビーチバレーボール選手の方と練習試合をした際にもっとお互い喋れ!と言われたのを思い出します。でも喋らずとも、何なら航希さんを見なくともこういうトスが欲しいだろうな、レシーブここに欲しいだろうなというのが手に取るようにわかる、そんな阿吽の呼吸のような、心地よくお互いのイメージ通りにプレーが進んでいくようなそんな島田・内田ペアだったと思います。航希さんとしたビーチバレーは何よりも楽しく、心地よかったです。
航希さんがあの時、強い意志で私をビーチに誘っていなければ私は大学3、4年生でバレーボールはしていなかったでしょう。私にもう一度バレーボールをやるチャンスをくれた航希さんには言葉で表せないほどの感謝があります。本当に、本当にありがとうございました。私の大学3年生のバレーボールの情熱の根源は、私にバレーボールの全てを与えてくれた島田航希への恩返しでした。だからこそ、一緒にコートに出て勝利する事ができた秋の入替戦は本当に嬉しかったです。
そして大学4年生、春リーグで2部降格、秋リーグで2部5位という最後の最後で最も結果の残せない年でした。リーグ戦で勝てない焦りから漠然とこのままでいいのかと全員が考え抜いた一年だったかなと思います。後輩に2部の舞台でバトンを渡すのは心残りで、本当に申し訳ないと思うのですが、今年1年で大きく成長を見せてくれた後輩たちならば必ずやこの悔しさを晴らしてくれると思います。
そして最後の全カレ、全ての気迫と想いを乗せて、私の12年間のバレーボール人生の全てをぶつけました。この大会の全てが私の集大成です。私のバレーボール人生に悔いはありません。
長らく語ってしまい申し訳ありませんが、これにて私のバレーボール人生の振り返りとさせて頂きます。そして最後に慶應義塾体育会バレーボール部でお世話になった方々への御礼を持ってこの活動日誌を締めくくりとさせて頂きます。
私たちが何不自由なくバレーボールができる環境を整えてくださった三田バレーボールクラブの皆様。皆様のご声援のおかげで私は慶應義塾体育会バレーボール部で体育会活動をやり切る事ができました。ありがとうございました。
星谷監督。一度部を抜けた私にも時折電話をくださり、いつでも待っているよと声をかけてくださいました。だからこそ安心してもう一度バレー部に戻ることができました。星谷さんにはプレーだけでなく部活に対するマインド、練習に対するマインド、試合に対するマインドを学ばせていただきました。特に最後の年は勝てない中で、どの様にモチベーションを保つか、マインドセットでいるか、結果だけでない大事な多くのことを学ばせていただきました。
同期へ。4年間一緒に歩んでくれてありがとう。全員がバレーボールへの意識が高く、それぞれが違った強みを持っておりそれを生かしていた代でした。同期それぞれに色々な刺激をもらえました。特に最後の年は辛い思いや苦しい思いが色々あったけど、それを乗り越える事ができたのは同期のおかげだと思っています。全員に感謝しています。
後輩へ。なかなか意味のわからないノリやだる絡みを後輩には多くしてしまったけどそれを笑顔で受け入れてくれて嬉しかったです。全員が可愛くて自慢の後輩です。その時その時の出来事に一生懸命になり、バレーボールに全力で向き合えばそれが大きな財産になると思います。後輩たちが頑張っている姿を来年も応援しますし、そして私も力を貰いたいと思います。本音を言うならもっともっと一緒にバレーをしたかったです。
そして両親へ。面と向かって感謝を述べたことはあまりないけど、辛いことがあった時など、何があっても実家に帰れば温かく迎えてくれる、その安心感は私の色々な挑戦の後押しになりました。最後の年は遠くから試合を見にきてくれてありがとう。自由に進みたい道を応援してくれてありがとう。両親という最大の味方がいたからこそ色々な経験が出来ました。これからは私が返す番です。
そしてここに書ききれないほど多くの方々へ。改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。私に関わってくれた全ての方のおかげで私のバレーボール人生は幸せでした。
振り返っても辛い事が何度もあり、その度にたくさんの人に支えられ、立ち上がってきました。そして辛い事と同じ位に多くの楽しい事、嬉しい事がありました。私はこれまでの全ての日々に全力で向き合ってきました。そしてこれからもそうあります。
私を作り上げてくれた、我が青春の日々たちよ、ありがとう。
これからの慶應バレー部に幸あれ。
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かつや、帰省したらバレーしような。